時代に所属する

時代に所属する

2019.03.29-04.12 東京・岩手(花巻)

私たちはなんでも記憶からボロボロこぼしてしまう。私たちは全部いずれ忘れてしまう。だから記録をここにとどめる。4月1日のことだ。新元号の発表があった。私は、それをライブの中継で観ようとテレビを付けたのだが、テレビは受信を拒否した。エラーコード202というのが表示されて「悪天候かアンテナの不具合かで、受信できません」とのメッセージが死んだ画面に出た。あとで確かめたら、住んでいる建物のある手違い(詳細は省く)を因子として、ちょうど午前11時からケーブル放送の受信が止められていた。この、私のせいではない「元号の発表に立ち会えない」件は、象徴的だった。そうか、私という人間はオミットされるのだな、と。

しかし私の手もとにはスマートフォンがあり、それがニュースを受信した。メッセージが、それは令和だ、と告げた。たぶん、いきなり「字」で認識した人間は少数派なのだと思う。私はどう思ったか? 背筋がぞっとした。令、とはもちろん第一義が命令や法規であって、それに和せ、と言っている。私の頭のなかには、その英訳が Obey the orders and smile. Obey! と響いた。あるいは Obey this nation か? Obey YOUR nation か? 律令国家、という言葉が浮かんで、律は刑罰を指し、令は法令なのだけれども、そうかそこまで戻るのかと思った。もしかしたら、レイワって響きはかっこいいね、で世間は終わっているのかもしれない。ようするにキラキラ元号だ。まただ、と私は思った。また私の時代ではないんだな、と。

しかし私の時代などなかった。私が、文化の受け手として大きな満足を得ていた時期は、1987年から1992年までで、だから昭和でも平成でもない。そこを跨いで、わずかに5年だ。だが、1992年の10月に路上で1匹の猫と遇って、3カ月後に暮らしはじめて、その2年後には結婚もし、妻も路上経由の猫と暮らしていたから、猫は2匹となり、それは「私たち」の時代だった。その幸福は、たぶん私が文化の送り手にならんとして、事実なる(単行本『13』でデビューする)時期を挟み、2003年頃まで続いた。感覚としてはこうだ——どうしてだか2003年頃まで、だ。とすると、この時代は、20世紀に含まれず、はみ出す。またしても、時代で区分されない。

いっさいは1日1日の積み重ねでしかない。私たちはこれから令和に吸収される。しかし、その時代の所属感を「断つ」には、現時点を生きるしかない。私の時代はなかった。あるいは、私たちの時代は過去にあった。あとは、私たちの時代はこれから来る、そこも少々は夢想する。2019年3月30日に、仲間とモノを作り、それは画廊劇「焚書都市譚」として、劇/文学/パフォーマンス/絵画/音楽/映像空間、その他のはざまに、あるいは融合する場に誕生した。あの、観客も含めた、形容しがたい昂揚感はなんだったのだろう? それから私は、この画廊劇の「四月版」に意識を向けつつ、『木木木木木木 おおきな森』のために岩手に飛び、3日を過ごし、『木木木木木木』連載第18回めの原稿を仕上げ、『百の耳の都市』連載第2回に集中し、原稿を上げ、その間もずっと LOKO GALLERY とやりとりし、じつは風邪をひき、まだ治らない。臥せている時、いつも私は「現在」を想う。