あなたは何を欲しているのか

あなたは何を欲しているのか

2020.01.25-2020.02.14 東京・福島(中通り広域)

私は20代のお終いか30代の初めに、ある明確な目標を定めて、そこに向かって生きている。その目標については詳細を口にできないが、要するに「いまだ全然たどりつけていない」という一事だけは言える。私は、手に入りそうにないものを手に入れようとして、ひとまず20年以上は奮闘しつづけている。なにゆえ、それが「手に入りそうにない」と断じられるのかと言えば、私は、あまり「持たない」で生きてきた・生まれてきたからだ。そうなのだ、私は決して「持っている」人間ではない。私の内側には巨大な欠如があって、その凹みのことは幼少期から意識していた。だから、それを独自に埋めないかぎり、私は人並みにすらなれないのだ、と、これは言語化の能力を養う前に、すでに本能で感得していた。

人は誤解しがちだと思うのだが、嫉妬とは、むしろ「自分にも持てそうなのに、持てていないもの」に対して生じる。あなたは、たとえば、ドナルド・トランプに嫉妬するだろうか? あの人間に嫉妬するのは、自らアメリカ大統領に「なれるかもしれない」と思っている人間のみ、である。この一例でもわかるように、全然なれそうもないことに人間は嫉妬しない。そもそも、全然なれそうにないことは、その人の関心を(おおむね)呼ばない。だから、あなたが何事かに嫉妬するとしたら、あなたは、それになれて当然なのにと思っているのだし、それを自分が持っていて当然でもあるのに、とどこかで考えている。そうしたものが魂の底のほうにある。

努力というものを、嫉妬の対象に注ぐと、あまりよい結果にならないのではないか、と私は感じる。努力というものを、私は「自分には持てそうにもないから、嫉妬もしない」対象に注ぐ、ということから、自覚的な歩みを始めた。いったい、それが成果を生みうるのか否か、は、現状ではわからない。ただ、この2週間のあいだに自分が奮闘してきたことをふり返っても、たとえば『曼陀羅華X 2004』の160枚のゲラを戻し、ついに「新潮」誌に発表し、福島に行き、甥っ子の力を借り(と言いながら、2人で楽しいドライブをしただけでもあるが)、実兄の〈人生〉と対峙し、そこから、福島について考えつづけ、来月発表される某誌用の原稿を書き、その原稿がどうしたって生涯で1、2度しか書けない類いのものなのだ、と自覚し、続いて今年自決50年を迎える三島由紀夫に対峙し、ある〈論〉を仕上げて、自ら戦慄し、そして『曼陀羅華X 2004』の連載第2回の原稿に向かい、今日(2月14日)も苦闘と激闘しかしていない、という自分は、「持たない」人間がどこまで進めるものかを見据えようとしているのだ、とは言える。

シンプルに生きようと思う。単行本『木木木木木木 おおきな森』は、着々とローンチの準備に入っている。私は本当にあらゆる人の力を借りようとしている。借りている。そして、関わる全員に楽しんでもらうのだ、と、そう決意している。