【古川日出男の番外地】#2 ペスト

「ペスト」

X区X丁目・番外地

ここ数日、とは本年3月末のどこかから4月1日の朝である本日にかけて、ということだが、「東京(首都圏)は番外地化するのか?」と考えている。そしてアルベール・カミュの小説『ペスト』がふたたび世界でベストセラーとなってしまったなと考えている。私はいま現在、文芸誌「新潮」にて連載している『曼陀羅華X 2004』のその連載の初回から、この小説『ペスト』をこっそりと作品に紛れ込ませていた。3月発売の回においては、かなり(それが『ペスト』であると)前景化していた。気づいた読者は気づいた。この『曼陀羅華X 2004』を私が書きはじめたのは昨年の11月下旬からで、もちろん地上のいたるところをコロナ禍が襲うなど予想も予期もしていない。そして、今後(の私の予定では)、この『曼陀羅華X 2004』なる物語はもっともっと『ペスト』を全面に打ち出す。……また、こんな結果だ、と私は思う。また、俺は悪しき予言をしてしまっている、と……。

(この告白の苦さを、わかっている人はわかるだろうが、私は過去に何度も、自作を「予言的」に書いてしまっている。私が描いたビジョンは、時に数カ月か数年遅れで現実化した。いつも遅れて、遅れて……)

しかし、今度の現実はこの私の執筆の速度を追い越しているので、これは「後追い」の小説となるだろう。すると、私には「採れる」手段としてふたつの道がある、ということになる。たとえば私が、2012年に単行本にまとめた『ドッグマザー』は、その雑誌発表のさなかに東日本大震災が発生したがゆえに、もともとの構想の〈激変〉を余儀なくされてしまい、終盤、まるっきり「違う小説」に変じていった。では、今度もやはり、私はそういう方向を選択するのか? 実際に新型コロナウイルスの〈悲劇〉がこの地上を覆っているから、小説はここで中断するなり、そのストーリー展開というのを全面的に変えるなり? ……が、いまひとつの道もある。構想のままに「同じ小説」として書いてしまう、だ。私は、世界がコロナ禍に襲われているというのに、それをなぞり、そこにビジョンを「重ねる」小説を、このまま、来年のどこかまで、執筆=連載しつづける……。

カミュはなんと言ってるか? 書け、と指示している気がする。私が『ペスト』を文学的に讃えるのは、そこに戯曲『カリギュラ』からの跳躍があるからで、このことの意味は個人的に大きい、というよりも、激しい。東京の(あるいは首都圏の)あらゆる区、市、その他は番外地を生むか? 何もわからないが、ひとまず私は、私が抱えた小説を「生きのび」させようとしている。それだけは言える。