アザミのように

アザミのように

2020.05.09 – 05.22 東京

薊(アザミ)がもう羽を生やしていた。そんな情景は、歩いていなければ見出せなかった。これもひとつの出会いなんだなと私は思う。私のいまの運動時間は、多い時には1日に4時間ちょっと、これが来月の後半には5時間になり、再来月の半ばまでに7時間になる、というか、ならなければ準備は調わない。1日平均20キロから25キロ歩ける(かもしれない)肉体を作るとは、そういうことだ。問題は、ここまで鍛錬に時間を割いていると、その所要時間は睡眠時間のそれを超えてしまう、ということで、なかなかな限界が見え出している。しかも先週から私は後頭神経痛(具体的には大耳介神経痛)にやられ出した。痛みが最悪な時には、寝ることが叶わない。昨日もほとんど寝ていない状態で小説を書いた。

おもしろいことに、それでも書けはした。執筆に関しては、私は「正しさ」をジャッジできる。私がいやなのは、このコロナ禍の時代になって、自宅から外部とのやりとりを行なう際、それまで未導入の環境を自宅(というかコンピュータ等)内に仕込まなければならないのだけれども、マニュアル通りに進めても撥ねられることがあることだ。どうして「正しさ」が否定される? そういう自分では判断不能の事態が続々現われると、やはりストレスにやられる。つまり、後頭神経痛にやられている、のだと思う。そして、他の人びとは、収入が断たれることにやられたり、周囲の人間の現実的な暴力にやられたり、警察でもない人間の警察行為にやられたり、表現したいのに表現の場を奪われたり、等している。

そういう状況を、しかしポジティブに殴りつけるために(とは新しい状況の創造のために、だ)、行動を起こす者もいる。おかげで私自身の表現も、新しい光を当ててもらえたり、ふたたび現実世界に返ってきたりする。後藤正文さん(ゴッチ)が4月、音楽関係者支援のチャリティ・シングル『Stay Inside feat. Mabanua』をリリースして、そのBサイドに「Mirai Mirai feat. Shingo Suzuki」が収録された。私の『ミライミライ』から、詩が読まれた。また、ゴッチと私の昨年8月のステージ『雨ニモLOSER』が先週映像公開された。これは監督の河合宏樹くんが、「いま、映像作家として人びとに手渡させること・もの」を考えて、制作に走った。そういう意思、というか意志。『雨ニモLOSER』は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」とベックの名曲「ルーザー」が、イーハトーブフェスという駅で出会い、発進する、というような1時間ちょっとだ。たぶん、これも銀河の旅である。たぶん、私たちはいつだって、銀河だの地球の裏側だの愛する人の心の奥側だの、大好きな猫の丸まったお腹のあいだだの、そういうところまで旅している。

今度の日曜日(5月24日)には自宅から柴田元幸さんと対談する。しかも、それがリアルタイムで誰でも見られる、というのが、じつは私にはいまひとつ実感が湧いていないのだが、語ったり、読んだり、質問に答えたり、してみようと思う。マニュアル通りに進めても私が画面から消えてしまったら、呪術をもって再召喚してもらいたい。