現在地を消す

現在地を消す

2020.06.27 – 07.10 番外地

今日が何日なのかはわかる。私の誕生日の前日だ。だから時間の「現在」は判明している。しかしながら「場所」は? 私は本日から、おそらく8月のちょうど半ばまで、現在地のない空間に身を置こうと決めた。それは自主隔離だとも言えるし、さまざまな人びとの記憶に触れる準備と、実際に触れてからの消化のための必要性だとも言える。いずれにしても、私はもう「ある場所」にはいない。ひと月と少しの間、そうする。仮に報告が滞ったら、その世界には時差があるのだ、と見做してほしい。とはいえ、ひとつだけは空間の情報を記しておく。私は26キロまで歩けるようになった。荷物を背負って、だ。この後、私(たち)を迎えるのは、摂氏35度を超える気温だとか、雨天だとか、荒天だとかになる。私はそれらに、ひとつずつ対応する。事故だけは起こさないでいたい。誰にも迷惑をかけないようにしたい。

正確で詳細な報告は、今年の10月以降に行なう。それまで私は、嘘をつかないでいるために口をつぐむ。私は、じつのところ本当に嘘がつけない。私にできないことはふたつあって、それは自己アピールと虚言で、どうして自己アピールができないのかと言えば、この行為はほとんど前提として「他者をおとしめる」ことを要求するからだ。私は、誰かをけなすことで自分を高め(られていると誤認しえてい)る人間たちを、本日までの53年間のこの人生でもだいぶ見た。だから、自分はそれをしたいとは思わない/思えない。また、嘘がつけないのは、他人から嘘をついてほしくないからで、そういうことを外界(他者)に要求するためには「自分がそうである」ことがまず最初に要ると思った。

そして、そのふたつを守って生きてきて、損ばかりした。まあ「ばかり」との副助詞は誇張だが、得はしなかった。不思議なのは、金は儲けられないが信頼は得た、という事実で、信頼が得られるような人間は儲けられるような成功をするんじゃないのか、と若い頃は思っていたのだが、そうはならなかった。で、いまから私はどうしたいのか? このままでいい、と思っている。私はたぶん、成功はしていない人生を送っているのに失敗もしていない。そのことを「それも成功の形だ」と誰かが、そうしたことを自身も必要としている誰かが、仮に認めるようなことがあったら、私もどこかへは到達するのだろう。

ところで、嘘をつかない人間が小説家であるというのはどういうことか? 鎌倉時代に「源氏供養」というのがあった。供養、つまり法会だ。紫式部は〈小説〉などという大嘘をついたから地獄に落ちた、と信じられていて、『源氏物語』を愛読する女はその罪を祓わねばならない、と信じられていたから、こんなことが行なわれた。しかし、待て。紫式部は大嘘をついたのか? 私は、じつのところ「小説家はフィクションを書いている」とは思っていない。私は、私が描かんとする世界を信じて、いつもその〈世界〉にダイブする。そして、その〈世界〉で起こっていることをレポートしている。つまり私の小説(フィクション)は報告書(ノンフィクション)である。私は紫式部がそうではなかったとは思わない。そして、「小説なんて『作り物』だからさ」と考えて作品を執筆している同業者がいるとしたら、ちょっと信じられない。かつ、私は「変わり種」の作家なのだ、ともわかっている。私こそが変人なのだと。

この特異性が理解される時に、何事かは変わるのだろう。その点は(ほんの少しだけ)信じられる。今回はなんだかつまらない話を書いてしまった。さて。次回と次々回は、私はほとんど何も語れない/書けないかもしれない。しかし、だとしたら。私は沈黙のうちに、本当のことばかりを何時間分もぶちまけているのだ。