あなたの眼・わたしの眼・彼岸の眼

あなたの眼・わたしの眼・彼岸の眼

2020.09.12 – 09.25 東京・茨木

秋だ。完全に季節が変わって、やはり呆然としている。体調も少し崩れている。夏の間、どんなに過酷なアクションをとっていても、体調はすこぶる安定していたことを考えると、とても奇妙でもある。その夏のアクションは、どんどんと形にまとまっている。まずNHKで短いドキュメンタリーが放映されることになった。それがどのような内容なのか、私は事前チェックはしていない(し、したいとも思っていない)ので皆目わからない。ただ、番組紹介のウェブサイトにあったディレクターの言葉をさきほど発見して、胸を打たれた。私のようにめちゃめちゃな行動をする人間に、真摯に対峙する人間はここにもいるのだな、と。

テレビに映る、ということを、最初の数日間だけは意識して(というのは、「面倒だな」と思っていたということだが)、あとは私は完全に意識から追い払った。要するに、どう映るかなど考えていない。そういう人間がどう映っているのかは、はっきり言って想像の埒外なのだが、私にわかるのは、19日間の行動と何十名もの方々との対話を、1時間にもならない番組に「収める」ことは無理だということで、ディレクターはその無理に挑戦しているのだな、とはわかる。ただし、結局のところ、そういうのが「現実」というものではないのだろうか? 私は、たしかにある現実(現場)を見た。しかし、同時にそこに立ち会っていた人間が、同じ現実(現場)と捉えたかどうかは、わからない。

そのために私は、最初から「複眼が要る」と思ったのだった。私を助けてくれる人間に、ありがたく助けてもらったのだった。私がもっとも恐れるのは、ある現場や、ある人間に触れたから「自分は『本当のこと』がわかっている」と言ってしまうような傾向であって、そんなものは「本当のこと」の一部に過ぎない。本当、という言葉すら恐ろしい。だから私は、事実よりも真実を追求したい。そのために歩いたし、そのために書き、なによりもそのために思考している。

私自身が綴っているルポルタージュは、200枚を超えるボリュームで、すでに入稿されたし、ゲラも見た。そこで私が書いたことも、また「一部」に過ぎない。だが、私がめざしているのは、一部のなかに全部があるだの、全部のどこを切っても「一部」に見える全部が出現するだの、そういうことだ。詳細はいまは書けないから(ただし、まもなく読める、とだけは言っておく)、ここには別に書かないのだけれども、なにか「正しいこと」を語ることだけは今後も避けたい。私はただただ、もっと生々しい真理にこの手で触れたい。そして、私は人を愛したい。それはそれぞれの土地を愛することと同義だ。

いろんなことが終わって、水戸に行った。茨城県の県庁所在地、に。私は、自分はつくづく一次産業(≒農業)の人間だなと福島を旅しながら感じつづけていたのだが。私の父方の祖母の家系はじつは水戸の藩士である。そういうことを、フッと意識した。私は、私の何十分の一になるかならないかもわからない、無名のお侍さん、とその水戸のストリートで交錯する〈事実〉を、フッと意識した。

死者とともにありたい。水戸には花が咲いていた。