現実から幽体へ

現実から幽体へ

2020.11.14 – 11.27 東京・福島

地獄は抜けた。私の文学的な師匠であると言ってよい詩人・吉増剛造氏に「ボクワ地獄ヲ通過シナカッタ/ソレワ死後ニ取ッテオク」(詩篇『アドレナリン』より)という鮮烈なフレーズがある。これを一種の警句のように抱いて、いいや、凄絶にして真実だ、事実なのだとこの魂に刻んで、この何十年かを私は生きてきた。にもかかわらず、またもや「私は地獄を(ワタシワ地獄ヲ)」通過した。何をしているのだ俺は、とは思ってしまうが、しかしながら通過しきった。つまり、連載小説『曼陀羅華X』は、どうにか生まれ変わりのための苦痛を抜けた。

出産は1度しかできない。1人の子供に陣痛は1度しかない(と比喩的に言えるのだと思う。私は女性ではないので、経験から語れることはないのだが)。にもかかわらず『曼陀羅華X』は、まず最初の誕生の前にほとんど流産しかけて、しかし生まれた。そして、もう1度生まれた。これは2度の妊娠なのだろうか? 1度の妊娠の2度めの出産なのだろうか? いまのところ体感としては後者に思える。こんなことを私は「した」のだ。私は神でも神の子でも神の子の母親でもないので、処女懐胎にかかわることができない。だから2度の出産をした。たぶん編集者は、編集部は、騒然となったのだと思う。しかし、また産んだ。

この先どうなるかはわからない。まだまだ死闘は待っている。が、いずれにしても12月7日発売の「新潮」には、その生まれ変わりの姿を……生まれ直しの姿を、私は目撃させられるところまでは、来た。剛造師匠の『アドレナリン』から、もっと強烈な、終結部の手前の、ほとんど涙が出るようなリフレインも引く。こうだ。

「ボクワ地獄ヲ通行シナカッタ/シカシ/誕生シタ」

そして現実世界に私は戻った。戻って、何をしているのか? 声に呼ばれている。その声は、たとえば鉄道から聞こえる。たとえば川から聞こえる。言い方を変えよう。私を呼んでいる鉄道(たち)があるのだ。私を呼んでいる川(たち)があるのだ。だから、それらに乗り、そこへ向かう。じつはもう、来た。この文章は福島で綴っている。

もっと書きたいことがある。だが、またもやコロナウイルスが、何も語るなと私に言う。夏といっしょだ。だから、ひとまず沈黙し、私は呼び声(たち)に応えようと思う。今日から行動をともにする人間が私に言った。「幽体にならないといけないんですね、僕らは」と。そうなのだ。地獄を通過して、帰ってきた現実世界で、たぶん明日以降、私(たち)は幽体になることをめざす。