幽体から半分戻る

幽体から半分戻る

2020.11.28 – 12.12 東京・福島・宮城

前回(「現在地」第41回、昨日執筆)は失礼した。自宅前で水道工事が行なわれていて、これは地面を掘り返すというものだったが、そのために玄関前に〈お濠〉ができてしまっていて、そういうことならば十何時間でも籠もって書いてやるぞ、と思って、事実、仕事に専念していたのだが、そうしたら脳にブドウ糖もゼロの状態まで踏ん張ってしまい、他の原稿は何も書けないという状態に陥った。しかし、まあ、いずれ本にする原稿が前へ、前へと進んだのだから、よかった。

が、今朝、今度は寝起きに腰を痛めた。私はじつは10月の半ばに腰を痛めていて、3週間も運動ができなかった。それで「月末(11月末)の取材旅行は、できるのか」と不安だったのだが、どうにか、私は宮城と福島を歩き通した。結局85キロ歩いた。それは、前にも書いたように、幽体にならねばならない体験だった。そこから帰還して、もう肉体に完全に入り直したと思ったのだけれども、朝は「脳と肉体が、やや分離している」状態なので、また腰をやってしまった。今度は軽症だから、できれば3日ほどで治したい。

それで85キロのことだ。荷物を背負った状態での歩行だと80キロか。私は夏に福島県内の国道4号線と6号線を歩いたのだけれども、その二つが、宮城県の南部で〈合流する〉と気づいて、そこに立たねばならないと思った。だから、前回も同行してくれた碇本学くんとともに、また旅立った。もちろん国道ばかりを歩いたのでない。「ない」どころか道が失われていたり、道が作られたりしている場所にも迷い込んだ。たった4日間のことだったが、長かった。サポートしてくれる同行者(学くん)がいなかったら、挫折していたかもなとは正直に思う。

『曼陀羅華X』のことも書く。この連載小説は、最初に発表された塊まりが『曼陀羅華X 1994—2003』だった。連載化して、『曼陀羅華X 2004』となった。この小説の、途中で、私は今回タイトルを変えた。連載11回めにして『曼陀羅華X』と。単に2004を削っただけだ、とは思わないでほしい。それは象徴だ。私は、この小説を構成する3パートのうち、2パートは「全面削除する」と宣言した。つまり、発表済みの原稿の3分の2が消えた。そこからの再生に向かっている。これほど馬鹿げた、決死のチャレンジを、私はしたことがない。しかしやらなければならなかった。私は、ここまでは来たのだ、と思っている。だから、ここから先にも行けるのだ、と自分に言い聞かせている。

それから吉増剛造さんのことを書く。この師匠格の詩人と、無観客で私は対話(および、おのおのの朗読)を行なった。日本近代文学館の主催だった。映像はきっちり3カメで撮られて、来年2月には公開予定だという。それは、凄い時間だった。私には、感動的な時間だった。うち震えた。通常のイベントの場合、私は(というか、私たちは、だと思うが)観衆の存在を意識してしまう。共演者よりも、むしろ観衆の反応に意識を向けてしまいがちだったりする。そういうのが一切なかった。つまり、私は、剛造さんと向き合い、ただ話した。いや聞いた。そこでわかったことは、人=表現者は、誰かの〈影響〉というものに守護されて、未知の道程を進むこともある、ということ。

書かねばならない。もっと書かねばならない。