眼。そして三次元を駆ける

眼。そして三次元を駆ける

2021.03.13 – 2021.03.26 東京

3回前のこの「現在地」で、私は右目に白内障の手術が要ることを報告した。しかしながら、3月3日に単行本『ゼロエフ』を刊行して3月11日に映像作品『コロナ時代の銀河』を発表して、これらに関する諸作業を終えるまでは、どうにも身動きが取れないでいた。とはいえ、3月15日からの週にどうにか時間を見つけて、まず「かかりつけ」の眼科医に相談して、手術先の病院を決め、紹介状を書いてもらい、そちらに連絡をし、診察の予約を取り、ようやく22日からの週に、その病院に行けた。

ここで診てもらって、話をしたら、あとは手術日を決めるだけだ、と思っていた。まず診察があり、それから検査があり、再度の診察が同じ日にあった。その2度めの診察で、「あなたは強度の近視だから、右目だけを治すと、眼鏡をかけた生活では不自由が生じる。左目もいっしょに手術をするのがよい」と提案された。頭が白紙になるというか、硬直するというか、凄まじい抵抗が内面から湧き上がるというか、とにかく、そういうことが起こった。

詳細は省くが、提案には3種あって、もっとも〈おすすめ〉が左右の眼球をともに手術、だったわけだ。しかし、どうして、いまのところ問題は生じていない左目にメスを入れて、水晶体を除去し、人工のレンズを挿れなければならないのか? どうして、左目は犠牲にならなければならないのか? 医師には「そのほうが『当然、よい』から」とのロジックしかない。私は、しかし、自分の左目をどう説得してよいのかわからない。そこには倫理がない。私自身の、私の感覚器官に向けての倫理が。

手術は断わったのだった。右目も。仮に「数日考えて、返事をしてよい」と言われたら、もしかしたら両眼の手術という提案を容れたかもしれない。だが、「ここで即決しろ」との姿勢は、どうにも理解できなかった。これで私は、これからどんどん濁る右側の視界と共存しつづけることになる。もちろん私は、執筆だの読書だのに圧倒的な支障が出始めたら、次の方策は探す。だが、とにかく、その瞬間に私という人間を衝き動かしたのは、論理(ロジック)ではなかった。倫理だった。

これは暗い話なので、そうではない話題に移る。3月22日をもって、ひとまず『ゼロエフ』のプロモーションは一段落した。ここまでに受けた取材は、今後も幾つか、いろいろな形で発表・公開される。そして『ゼロエフ』は、いろいろな人が「個人的な思い」とともに、私に読後感を届けてくれている。時には感想を読んで泣きそうになる。また、これは『ゼロエフ』内に登場する方でもある小名浜の郷土史家の江尻浩二郎さんが、感想のメッセージを私に届けてくださった夜、その(メールの)文面がトリガーとなって、自分の「この先の歩み」というのが見えた。ビジョンが到来した。それは、たぶん、やるだろう。何年もかかるだろうが。

あと私は『コロナ時代の銀河』についても、もっと語りたいのだった。あの映像(というより映画)に関して、けっこう徹底的に語りたいとの衝動があるが、機会も場所もいまのところ用意されていないので、ある情報を短めに出す。あの映像は、オープニング(車内のカムパネルラ)からエンディング(校庭での〈十字〉の出現)まで、じつは、カメラを止めずに演じられている。55分間、私たちは歩きつづけ、朗読しつづけ、教室から教室へと出現・退場を繰り返して、あの校庭に「人びとの手もて」ステージが組まれる時間を生き、そして第3幕の野外朗読劇に至った。あの、移動しつづけて呼吸しつづけた時間。あれこそが3次元だった。そして駆ける(=時間を掛ける、掛け算する)ことで4次元(4次元世界)にしたのだし、それは映像にとどめられた。

私の肉体はこれからも老いるのだろう。それは加速する。しかし〈とどめる〉という行為も、加速させたい。そこに価値があるのかどうかは後から考える。後から証明する。