失敗する価値

失敗する価値

2021.09.11 – 2021.09.24 東京

これは前々から予想していたことなのだけれども、オリンピック・パラリンピックが終わったら、きっと「そういえば、そういうのを今年、やったね」的な雰囲気に日本国内はなるのだろうなと思っていた。しかも早々と。もちろん、そうなった。そして、その〈早々と〉は正直言って、自分の読みを越えていた。しかしながら、そんなことを書いてしまっては、まるで私ひとりはまっとうに生きているぜと自慢しているみたいだ。そうではないのだ。私だって、「終わってしまったイベントは、こんなにも『遠い過去』のものになるのか」と愕然としている。

私は時々、以下にしたためるようなことをやるのだけれども、たとえば半月以上前に刊行されたニュース誌を今日(2021/09/24)読んだ。あえて時間差をもうけることで、時事的な話題が「どのように自分に訴えるか」を測る・試すことが、私にはある。五輪後、を特集した「ニューズウィーク日本版」の、その特集巻頭の記事は、西村カリンさんが執筆していて、タイトルは「『傲慢』で『卑屈』だった東京五輪」とつけられていた。私は、少し前まで忘れてしまっていたのだけれど、9年ほど前に西村さんにお会いしたことがある。パリで。その時の印象は、とてもすばらしいものだった(もっと柔らかい言葉で表現すると、素敵な人だった)。今回の記事も、とんでもなく強烈だった。そして、ここで提言されているような事柄は、はっきり言うとわれわれ全員の胸に響かなければならないのだろうが、しかし、雑誌発売から2週間以上が経って読む私は、さっき挙げた「『そういえば、そういうのを今年、やったね』的な雰囲気」以外を、国内に見ることができない。私はここでは、私じしんも数に入れて勘定している。

西村さんの記事の、冒頭の、日本人は「自分の仕事でないこと(=自分には無関係の事柄)は、しない」という指摘が刺さる。私は時々、たとえば電車のおなじ車輛でひとが倒れたりすると、駆け寄ってしまったり、車掌さんに言って結果として電車を停めてしまったりする。そういうことをするのは、私が「いい人間」であるというよりも、たとえば自分じしんがそんなふうな状態になった窮地には誰かに手をさしのべてもらいたいから、なのであって、つまり最終的には自分に利するような行為をしているのだと理解している。要するに根底にあるのは〈欲〉なのだ。その点をしっかり認識した上で、さらに付け加えるならば、私はこの社会(=現代の日本の社会)において、「変な人間」だからそういうことをしているんだろうなとも思う。そこまでの自覚があるから、西村カリンさんの指摘は妙な角度で(そういう角度でも)自分に刺さって、なお痛い。

失敗から何を学べるか? オリンピックが、国際的かつ国家的に「よい印象(記憶)」を残すことが、究極的には成功の証しなのだ、との判断軸を立てると、今回の東京オリンピックは失敗した。だから、失敗の原因を検証しなければならず、西村さんの記事は検証のための大事なものを呈示していて、しかし、それが「どこに」「誰に」「どのように」届いているのかが、私には具体的には想像できない。そのことがつらい。

私は、自分の居場所にある時、いわゆる〈本業〉の失敗から何を拾っているのか? 小説における失敗は、「評価されなかった」と「売れなかった」に代表されるように感じる。このうち、後者を、私はけっこう平然と無視する。なぜならば「売るための作業は、版元にゆだねた」という、そうとうに傲慢な姿勢を私が持っているからだ。しかし、私だって認識はしている、いまという時代は「作家が SNS で宣伝することが大前提で、さまざまなプロモーションが動いている」ような様相を。すると SNS をしていない私はそれだけで罪があることになるわけだが、そうなのか? また、「評価されなかった」点についても、そもそも私がふだん目にするところに〈好評〉だの〈悪評〉だのが転がっているわけでもないので、私は前時代的な判断しかしていないことになる。

私は、現代を生きる平均的な日本人のラインからはだいぶ外れた、要するに「変な人間」であり、そうした傾向は変えようとしたって簡単に変えられるものではない。そこに努力を傾けるのは無駄だと思う。つまり、ひとつ前のパラグラフの問題に照らして言えば、「売るための努力はしない(できない)が、いい作品、凄い作品を作ることだけには徹底して努めている」のが私の素なのであって、結局のところ、「凄くない作品を書いたのだけれども、そうしたらベストセラーになった」りしたら、あっさり絶望すると思う。私は絶望なんぞ求めていない。とすると、私は失敗から何を学べばよいのか? 東京オリンピックが明らかにしたかもしれないポイントは、「スマートな日本人であることは、無責任な日本人であること」だった(のかもしれない)。だとしたら、私は「明らかに〈変な作家〉である私は、その〈変な作家〉であることを規格外の何者かであるなどと言い換えることをもって、少なくとも無責任な表現者ではないことだけはアピールする」ことなのかと、ちょっと思えてきている。かつ、可能であるならば、それを自分でアピールせずに、他者の助けをもって達成したい……とは願っている。