本格的な「動き」に入る

本格的な「動き」に入る

2021.10.09 – 2021.10.22 東京・静岡

今年の6月、ちょうど『曼陀羅華X』の連載原稿の執筆を終えて、だったのだけれども、住まいを変えることを決めた。理由は多すぎるので、ここに列挙できるものでもない。しかし、ひと言でいえることがあるのだとすれば、生きていて「かつてあったものが、うしなわれる」とマイナスになることを悲しむよりは「これからの暮らしには、ゼロから足し算するしかない」とプラスの方向だけを眺めることが、たぶん大切なのだと確信したから、だ。後ろを見ないために、全部の足場を変える。それをやろうと思った。

思うのは簡単で、その実行は、難度が相当に高い。だいいち転居のための事前の準備、その他を、どうやって執筆時間の隙間に見出すのだ? というわけで、前よりも壮絶なまでの〈執筆姿勢〉をとって、たぶん15日間のうちに13〜14日分の仕事をやり、浮いた時間をこの転居のために費やす、ということにした(のだと思う。無我夢中だったので、何をどうしたのだったか……)。年内には発表できる予定の「現代語訳『紫式部日記』」の作業時には、私は、じつに4キロ痩せた。こういう数字を挙げると、我ながら過酷さに滅入る。

私はこの文章を東京都の杉並区で綴っている。ひとまず仕事部屋のテーブルはふたつ畳んで、せまい机ひとつの上で書いているのだけれども、「杉並区からどこへ移るか」は、相当な選択肢があった。これは私ひとりで決めることではない。これからの家族との暮らしの決定的な〈基礎〉となるのだし、つまり家族会議こそが最大の決定力を持つ。さまざまな土地が検討されて、もちろん東北もそこには含まれていて、しかし北関東もあって、それから妻の実家との距離関係も測られた。

ある土地の、ある古い家を見つけて、実際に訪問して、そこで決まりだ、と思ったのが、6月の下旬だった。数日後に、その土地を再訪した。大切なのは「数キロという範囲で歩いて、観察・感受する」ことだと直感して、午前中からそうした。……そうしたら、不愉快な出来事が、ふたつみっつ、起きた。最終的な出来事は、私に本格的な腹立ちまで覚えさせて(事件後の3時間ほどは私の頭から怒りの湯気が出ていた)、「絶対にここには住まない。住めない」と確信させた。で、そのプランはおじゃんになった。

その翌日に、というのが凄いのだけれども、ある物件が見つかった。さらに数日後に、実際にそこを訪問した。古い、古い、そして狭い(というか小さい)一軒家である。屋内に入って、ハッとした。そこにはガラス越しの庭とか、そのホワッと包容力のある庭から射し込む陽光とか、庭のさきの壁の向こうには樹々とか、その1本の枝に雉鳩が留まっているとか、そして、その雉鳩が、軽みのある声でポポッポポッと鳴いている、とか、そういうことがあって、しかも庭に出てみたら「あんたは誰だ!?」と走って逃げ出すノラ猫もいて、完全に私(たち)は心を射貫かれた。

そこからはさまざまな手続きがあり、さまざまな手配があり、しかしその辺りのことは省くと、私(たち)は5日後に引っ越しをせねばならず、私は、おととい、執筆仕事の大半をようやく片付けたばかり、である。間に合うのか……と考えると、なんともゾッとする。が、ゆうべ、ある人から「引っ越し作業はね、終わらないんですよ〜古川さん〜」とメールが来て、「それでも引っ越し用のトラックは来ますからね、全部積み込まれちゃって、終わるんですよ〜〜〜古川さん〜〜〜」とも言われて、絶望と希望とが季節はずれの一大盆踊り大会である。つまり、輪を描いて踊っています。

新居には「雉鳩荘」との名前をつけた。ロケーションだが、なんと、私たち夫婦の本籍地にある。東村山市だ。私は、よもや、本籍の置かれた土地にUターンするとは思っていなかった。しかしながら、これは縁なのだろうと思う。そのことを信じている。

小説の話をすれば、今月に入って、とうとう単行本版『曼陀羅華X』の初校の作業をフィニッシュさせた。真に重要な加筆が行なわれて、大幅な追加原稿は、ゲラ上に朱で書き入れるのではなく、新たにデータで入稿した。そこまでやった。『曼陀羅華X』は、そのスタート時点(の前夜)からこのゴール地点(の直前。刊行は来年に入ってからである。そして1月には出ない)まで、自分の小説家キャリアのなかで、「こんな成り立ちの本は、なかった」という1作になっている。

再校ゲラを、今年の終わりに、静かに、「雉鳩荘」で見ようと思う。そして、いつか、どこかで自分たちの新しい暮らしを綴る『雉鳩ノート』というシリーズも始めたいのだけれども、いまのところ、こうしたエッセイの発表の場(ステージ)のあてはない。まずは転居用の段ボール箱に埋もれて、考えよう。いや、その前に、梱包をしなければ段ボール箱の山も生まれない……。