フィクションに現実を。こんなようなフレーズを綴ると、もしかしたら「小説にはリアリティが必要」だと僕が唱えているように誤解されるかもしれない。いや、単純な誤解ではないですね。小説には、ある程度のリアルな力が必要です。でも、ここで伝えたいのは、ひとつの小説(=フィクション)が、読者の存在によって現実のほうに解き放たれる、そんな情景です。その情景の、美しさや、強さです。僕は、ひとりの作者として、ひとまず『ミライミライ』という小説を北海道に解放してきました。今週の頭に、北海道大学と札幌のカフェの2カ所で、柴田元幸さんとテッド・グーセンさんという、年長の偉大な人たちとともに、『ミライミライ』をひとつの軸にしたトーク、それから朗読を行ないました。聴衆にも恵まれて、たとえば「北海道の読者が、『ミライミライ』を読み、そこに彼の体験した《現実》を肉付けしてくれている」様子を、聞かせてもらえたりしました。『ミライミライ』は、じつに徹底してフィクショナルな北海道小説である(でもある)わけですが、それがノンフィクショナルなものに転じた、と体感できる日でした。この日をもって、《ノンフィクショナルな小説》という形容矛盾の1冊が誕生した。ふたつのイベントの翌日、札幌を歩きながら、あるいは千歳に向かいながら、そうした「文学の飛翔」を感じました。本当によかった。ありがたかった。そして、帰京の翌日、その夜(2018年6月20日)、僕の作品の力強い読者であり、ものの書き手であり、若い友人でもある碇本学くんが、このウェブサイトに寄せてくれた文章(二つの「古川論」)のアップに至りました。そこで彼は、たとえば僕が2007年春に発表した『サマーバケーションEP』というフィクションに、本気で《現実》を足してくれている。しかも、いまも足し続けてくれている。このことに感動します。碇本くんの文章を読みながら、たとえば『LOVE』や『サマーバケーションEP』を僕に「産ませた」街が、かつて存在し、いまもあるけれども、もしかしたらいまはない、もう失われてしまっている、しかし、そうした街の風景は、いまも「本の内側にならば、ある。存在しつづけている」ことを、実感し、それらの「ある。存在してつづけている」ものが、読者によって《現実》の側に還元される、その凄みを、味わいました。つねに、読者が、読者こそが、フィクションを現実世界にリリースするのだ、解放するのだし投下するのだ、そうしたことを歓びとともに思い知らされた。ただただ、ありがたいです。あと、たとえば、この「古川論」を読んだことで、作者である自分にとって『あるいは修羅の十億年』という小説が、その相貌を変えたこと。よい方向に導かれたこと。そうしたことにも感激します。ひとつの文章や、ひとつの作品は、それぞれに「成立の背景」を持っていて、発表されたタイミングあるいは媒体で、基本的には「ひとつの顔」しか持てない。それが、変わるタイミングがある。幸福なことに、授けられる。同じようなことが、昨秋、日本経済新聞に発表した随筆で起きて、その文章が『ベスト・エッセイ2018』に収録され、先日刊行されたようです。ふたつ目の顔、あるいは、それよりも多い容貌。そんなものを、どんどんと足したい、足してもらいたいし、もらえていることに感謝します。フィクションに現実を。あらゆる文章に無数の相貌を、その機会を。可能性を。
20180621