サド侯爵夫人。これはもちろん三島由紀夫の戯曲のタイトルで、しかし同時にその戯曲の主人公で、しかも彼女には名前(ルネ)が付いているのにその名前のほうは題名にならない。この作品には登場しない、サド侯爵、がタイトルの3分の2を占めている。というのはタイトルは6文字で、むろんサド侯爵は4文字だからです。いまは6月28日の午後8時過ぎなのですが、明後日(2018年6月30日)のこの時刻には、たぶんこの戯曲の《上演》のまさに最終部分に至っています。この戯曲『サド侯爵夫人』は、登場人物は6名で、かつ全員が女性、そういう設定の戯曲を、女性1名+男性4名の編成で、朗読であるが《上演》であるという形式で、どのように形にできるのか? 僕が考えたのは、これは「台詞劇」なのだから、その固定された感じを、きっちり視覚化する、ということです。答えはすでに見出されています。かつ、テキスト=『サド侯爵夫人』に書かれている台詞はいっさい省かず読みます。それどころかト書きもまた、相当読みます。僕自身は、ほとんどアクションらしいアクションは、しないでしょう。それはもしかしたら「執筆」のように見えるかもしれない。それこそ望むところです。「執筆」がそこにあり「朗読」が全篇に満ち、かつ出演者はそれぞれの役割を極めて《上演》が達成される。その、達成の瞬間、を心待ちにして、この数日を頑張っています。約2週間後に「ほぼ日の学校」さんで授業を行なう予定で、それはシェイクスピアの『マクベス』と自分が現代語訳した『平家物語』を、黒澤明の監督作『蜘蛛巣城』をブリッジに語る、というものなのですが(この講座はクローズドですが、オンライン聴講もいずれは可であるようです)、これの準備を進め、いっぽう、佐々木敦さんとの「共同対話」と言えるインタビュー本は、いえ、まあ対話はつねに共同で行なわれるもので、だから「共同対話」というのはおかしいけれど、「共同作業」というのとも違う、この奇妙にして異様にして壮絶な迫力の本は、ゲラの段階に入りました。まだ全容は僕自身もつかめていないのですが、対話そのものは全9章+1章(後記を兼ねる対話)、そのなかばで、つまり第5章でですが、いっきに自分が、ということはつまり作家の古川日出男がですが、闇に落ちる時期が来る。その時期の、長い長い対話も、隠さずに削らずにきちんと収録しています。まともな神経の作家だったら、ここは削るだろうな、とか、そもそも収録はまるまる見合わせるだろうな、という箇所を、トークを、全部残しています。こんなものを出していいのだろうか、とも思うのですが、同時に、「結局のところ『モノを作る』とはこのようなことであって、こうした部分を隠蔽したら、それこそフィションだ。虚構だ」とも感じます。虚構化する世界に対して、ある種の真正なるものとして対峙するためには、ここまで恥をさらし、裸をさらさなければならない。そのような思いです。そして、そうした自分のサクリファイスは、1グラムや2グラムは、小説に、また文学に貢献するのではないか。そこだけを信じて、やっています。ところで僕が以前、蜷川幸雄さんのために書いた戯曲『冬眠する熊に添い寝してごらん』ですが、あれは世界的演出家に対峙するために「小説家の/小説家による戯曲」として、あえて書きました。じきに起筆する戯曲は、むしろ「劇作家の/劇作家による戯曲」になるはずです。その意味を、僕も書きながら探求します。
20180628