もう揺れないでほしい。そう願うばかりです。けれども私たちは揺れる大地に生きている。これをどう考えたらいいのか。僕が思うのは、けっして「だからその土地から移れ」などということではない。日本が災害列島だから、この国を出ろ、などということではない。それはむしろ、どうして生まれた命は、いずれ「絶える」……すなわち、死を迎えなければならないのか? との問いに似ています。私たちは、この土地に生かしてもらっているのに、この土地は、時に私たちを滅ぼす。あるいは、この星に、と言い換えてもいいのかもしれない。自然災害とはいったい何なのだろう、と思う時、こうした「答えの出なさ」に直面します。この夏、そして、この数年、そうした《直面の苦しさ》に、ちっぽけな自分は声を失うばかりです。いずれにしても、北海道の、直接の(地震の)被災地、そして全域の回復を願います。明日の夜に予定されていた、後藤正文さんとの TOBIU CAMP でのセッションはいったん実現不可能になりましたが、あの地で拙著『ミライミライ』に声を与え(そう、朗読して声を出し)、音を伴わせて、旅立たせて、オーディエンスの耳に届けたかったとの思いは、消さないし、なんらかの形で解き放ちたいと、切に思っています。本当は、今回のお便りは、次の文章から始める予定でした。「発売されました」。ここからは、その続きの文章を接ぎます。発売された、と記すとまるで自分の本が発売されたようですが、そうではない、雑誌「新潮」が発売されました。『ローマ帝国の三島由紀夫』は、最後までの粘りとともに、今号の「新潮」の誌面に定着して、あとは、《読む人》たちに解かれることを(その定着の「解き放ち」を)待つばかりです。暴力的な戯曲ですが、それはこの世界が暴力的だからであり、今回のこのお便りでもそうですが、僕は何かの答えを伝えようとしているのではない、むしろ、答えの出ない問いを「問いつづけ」ています。あらゆるカタルシスとともに。あらゆるスペクタクルとともに。あらゆる登場人物たちの、あらゆるお調子者っぷりや、あらゆるエゴや、あらゆる恐さや、あらゆる愛や、その他その他、全部とともに。それから、今日までの間に、次号『木木木木木木 おおきな森』の連載原稿もアップして、編集部に渡しました。週明けから海外なので、いっきに進めました。それから、次号(来月刊行)の雑誌「MONKEY」のための、原稿チェック、ゲラ作業などもほぼ完了しました。この次号「MONKEY」はどっと行きます。あれとあれとあれとあれとあれが載ります。このうち、あれとあれとあれとあれは、あれです。まるっきり意味不明でしょうが、来月半ばには視界明瞭になります。作品集『ポータブル・フルカワ』はその後で、やはり来月にはきちんとアナウンスできると思います。こうして執筆を続けながら、続けながら、とことん続けながら、しかし同時に自分は、考えて、考えて、ひたすら考えつづけている気がします。本(文学作品)とはなんだろう? 人とはなんだろう? 人を生かしてくれている、世界とはなんだろう? 結局、つねに僕の胸にあるのは、「僕にできることをやる」という念だけです。そして、僕にできることは、ちっぽけで、しかし、やらないよりは、よい。それは、あらゆる《あなた》も同様だと、もちろん確信しています。
20180907