とても短い長いお便り第9回。さあ、作品集『とても短い長い歳月(THE PORTABLE FURUKAWA)』刊行を機に無謀な増量モードに突入したお便りシリーズもついに最終回です。書き忘れたら大変なことから、まず書きますね。皆様よいお年を。というわけで回顧モードです。1年を振り返りましょう。でも、細かいことは振り返っていたらウザいですから、大きなポイントだけを。僕は今年、ついに、この古川日出男である僕ですらもが、ついに、「ああ自分が所属している世界(出版業界)は沈下せざるをえないのだな」と実感しました。5月か6月か、にです。もって3年だろうな、と絶望的な表情で覚悟を決めました。その覚悟と観念を経て、自分は何を考えたのか? いま現在、何を心に留めているのか? 以下3点です。
・衰えたものは出さない。
・読者を舐めない。
・小説は滅ぶのだということを前提視する。
これはつまり一切妥協はしないとの宣言です。小説は滅ぶ、それはそうです。小説を娯楽だと見做して、娯楽の内の一部だと見做せば、他に娯楽の選択肢は多数あり、むしろ無数にあり、その相当数が無料(にも似たトリックにて包装済み)であり、消費のための時間・手間もかからない、となれば小説は滅びます。絶対に、です。しかしそれは本が滅ぶだの字が滅ぶだの文学が滅ぶだのではない。そこを分けて、切り分けて思考すればよい。現実に、2010年代後半の読者が、すでに30年前40年前の大衆的な小説作品を「難しい、漢字が読めないし表現が理解できない、わからない」と言っているとして、そこに合わせる、というのは、いまの読者に合わせて、過去を切り捨てる、ということであって、過去を切り捨てる文化は(業界といってもいいんだけれども)未来に切り捨てられます。見限られます。だって、戦争の記憶の継承とかだって、そうでしょう? きちんと教育をしない、その結果、戦争が「どういうものか」わからない層が生じて、現在に極度に適応した果てに、戦争をする。過去を捨てれば未来に見限られる、なんていうのは、当たり前のことなんだけれども、ほんと、どうしちゃったのかな。僕は、50年前の本を読み、読みあさり、70年からもっと前のも結構ここのところ読み出し、古典に触れる時にはもっと遡る。もちろん遡行する。しかも今日からは1300年前のものを読んでいる。もちろん原文に触れている。あのね、そこまでしなかったら、何も書けないですよ。けどだ、だから誰もが同じようにやれ、なんて言っていないし、思いもしない。手法は無数にある。それこそ、そっちのほうこそ無数であり多数であり、相当数が希望だ。ひとりの作家が、「いまの実力以上のもの(=本)を読みたい」と願う、そうした貪欲な読者を10人産むようにする、10人ですよ、そうしたらどうなる? 作家って、いま日本に、何千人もいるでしょう。もっといるんじゃないの。その人たちが、10人ずつ、読者を産む。ここから、あと1歩、前か後ろに進みたい人たちをね。未来か過去に向かいたい人たちをね。そうしたら、いっきにオセロ・ゲームじゃん。オセロ。まあオセロ・ゲームって、いまもポピュラーなのか、俺わかんないんだけどさ。でもさ、年末だから言っちゃうんだけどさ、とにかく読者を舐めるなよ。
愛せよ。だって本に、小説に文字に、日本語にそれからその他その他の言語に、関わってるんだろう?
お前らだって本に愛されたこと、あるんだろう?
とても短い長い質問。
ネガティブな問いだと誤解されたら困りますが、これは戦闘的な問いです。
あなたは今年で「さよなら」したい人がいて、その顔がパッと浮かびますか?
悩んだら負けだ。
とても短い長いポエジー。
そして、これは昨日(2018年12月26日)の朝なのだけれど、その前日についに中篇小説を脱稿して、それは満足できる域に到達していて、そして、俺はどのような感情を抱えたか? 寂しいのだ。もう、あの作品を書けない、そのことが寂しい。そういうことが、折おり、ある。そういうことがある作家であることが、たぶん、いいことなんだろうと思う。
「作品が終わる。作品から私は追い出される。私こそが作者であったはずなのに。あの作品の、舞台となった土地は、建物は、もう私を受け入れはしないのだし、あの作品に、登場した人物たちは、もう私にその心の内を見せない。君たちはどこにいるんだ?」
そう思う時、それが詩だ。
とても短い長い1日。それはきっと今日(2018年12月27日)になるんだろうと思う。今日はまだ、午前10時を過ぎたばかりだ。このお便りを、こんなに早い時間から書き出すなんて、そして、あと数十分後には書き上げてしまうのだろうなんて、想像も計画もしていなかった。昨日、圧倒的な虚脱があり、スポーツジムに行って体を痛めつける時間があり、それから打ち合わせの時間があった。その打ち合わせをもって意識は切り替わるか、と期待したが、まだ突破には至らなかった。が、打ち合わせの宿題は、寝ている間に俺を打ち、鞭打ったのか? 目覚めれば、幾つかの現実的な答えが出ていて、朝、それに関してメールをする。数人宛てで、した。朝食の直後。そして、もう取りかからねばならない文芸評論の準備に入り、入るや否や、自分の内部にある《ダイヤル》がその評論にきちんとチャンネルを合わせた。チューニングが成った、ということだ。1時間半ほどで爆発する。爆発しながら、このお便りでみんなに告げなければならない事柄が浮かんで、それはもう、上述したようなことなのだけれど、なにしろ年の瀬だ、言ってしまわなければならないことは胸に溜め込まないで、言ったほうがいい。だって、それは誰かを代弁すらできるのかもしれないのだから。あなたは、きっと何かを愛した、愛している、小説とか、その他その他の、なんだっていいんだよ、人だっていいんだよ。きっと愛したし、愛してる、もっと愛したい。そうじゃないのか? だったら諦めるなよ。だったら殺すなよ。いいか、自分が死ぬのはいい、でもだからって自分のじゃない本とか、自分じゃない他人を何人も何十人もとか、殺すなよ。いいか、自分だけが生きればいいとか、自分だけが死んじゃえばいいなんて考えるやつは、もうすでに、他人をいっぱいいっぱいいっぱい殺してるんだよ。それをわかれ。わかれよ!
生かそうよ。
俺に言えるのはそれだけだ。あとは口を噤んで、自分にやれることを、やる。
よいお年を。
20181227