即答できない質問の多さに、ときどき呆然とします。自分が、です。これはしばしば例を挙げるのだけれども「最近聴いてる音楽はなんですか?」とか、「この頃よかった日本の小説はなんですか?」とか、目の前で訊かれて、でも即座には回答できない。どうしてだろうな、申し訳ないな、とも思う。この手の質問は、時間を与えてもらえればきちんと答えられることもあるだけに、不甲斐ないな俺はとも感じるわけです。しかも、もちろん音楽は聴き、もちろん本は読んでいる。なのになぜ、即答は無理なのか? それはたぶん、《あなたが》好きな音楽とか、《あなたが》好きな小説、という問われ方に、立ち止まってしまうためだろうと考えます。この《あなたが》って、つまり古川がってことなんだけれど。こういう質問をされる時、古川は、それじゃあ何をしているのか? たとえば、ある小説を執筆する期間内にいるわけです。その期間内は、その小説にだけ奉仕をしてしまっているわけです。そうすると、その小説の登場人物たちの嗜好はクリアにわかるのだけれど、それを「わかる」ために、自分を消してしまっている。自分を、の自分って、つまり古川をってことなんだけれど。僕にとって、小説を執筆することは、どこかで古川日出男を抹消することに通じてしまっているわけです。この辺りのことは、本当に説明が難しい。つい先日も、ある小説のある重要なシーンを書いていた、そこには《私》というキャラクターが登場します。この《私》が、さまざまな場面を語る、というか綴るわけだけれども、この《私》は僕ではない。つまり古川ではない。そして古川は、すでに「そのシーンを、どう書いたらよいか」を、きちんと組み立てている。そして作業場に向かい、作業(=執筆)をする。ただちに書けるか? 結論から言うと、書けはしました。誰が読んでも「いい原稿」みたいなのを。けれども、どうしても満足できない。読み直し、読み直し、書き直す。何かがおかしい。その何かって、じつは「この《私》のシーンを、僕=古川が書いているに過ぎない」ことに原因しているわけです。《私》のシーンは、《私》が書かなければならない。古川は要らなかった、という答えに至るのに、なんと3日もかかりました。厳しい闘いでした。このように、きちんと小説(の執筆)に沈み込む、とは、古川日出男を地上から消し去る、ことであるわけで、その古川日出男に《あなたが》と問う時、人は、困惑して立ち止まる古川を、僕を見てしまうわけですね。このところ、小説なるものが持っている異常性、特異性が、だんだんと本格的に僕を攻撃しているのがわかります。しかし、その異常性、特異性にはもちろんポテンシャルがあるわけで、可能であるならば自分が生きている間に「小説なるもの」を未知の「(2020年代以降の、version X の)小説なるもの」に変えてみたい、と思っています。それにしても、それとはまた別の話として、老化によって即答不可の質問が増えるって事態に、そうそうはブチ当たらないことを願うばかりですね。そして、さてさて、あと3日後……というのは2月25日ですが、その日には自分も作家デビュー21周年めに突入です! って困ったな……。
20190222