頭が演出脳にスイッチしている。そういう状態は、じつは「長篇小説を構想する時」に似ていて、あらゆる要素が同時に存在し、幾つかの具体的なビジョン(情景)があるのだけれど、登場人物ごとに捌かなければ「紙の上には載せられない」状態として抱えられているから、そのディレクションに努める、この、紙の上に、を、板(ステージ)の上に、と言い換えれば、つまり演出だ。演出をすること、だ。あるいは、こうも言えるか。演技をすることが「短編小説を構想する時」に似る、と。たぶん、ひとりの役者がひとつの役柄をフィクショナルに生きる、ということが、短い文字量の内側で物語の時間を通過する、に等しいのだ。こう考えると、いかに古川の長篇、がかつて演出をしていた古川に拠っているか、がわかった。いっぽう、朗読というのは演技とは異なる。まるで違う。それは作品世界を《丸ごと》取り憑かせるのに似ていて、どこかで演出に通ずるはずなのだけれども、それとも異なる。遠い昔に演劇をやっていた人間が、小説をやる人間に意識的にスイッチして、けれども再び演劇的なフィールドに接することが可能になっている、という事態のもっとも大きな原因は、やっぱり、自分が《朗読者》となったことにある、とわかる。そういうわけで『焚書都市譚』です。ついに文芸誌「すばる」4月号が出ました。きれいに掲載されていることに感激します。きれい、というのは、ありがたい扱いであることや、もともと手書きの原稿なので、それがこうして「活字化」されること、を指すのだけれど。まず、2016年の夏にアート作品として制作された4点の「連作名・焚書都市譚」があった。それが、昨年末、手書きの中篇『焚書都市譚』となって僕に書かれた。それから、いま、活字の『焚書都市譚』として「すばる」に載る。そして、その先に、またアート作品「連作名・焚書都市譚」が展示されていた(し、制作もその空間内で行なわれた)ギャラリーによみがえる、そのために画廊劇がある。台本をこの週末に仕上げるために、これからアクセルを踏みます。それにしても、中篇『焚書都市譚』を書いてみて、いかに自分が過去作『ゴッドスター』を重要視しているか、を痛感した。また、連載巨篇『木木木木木木 おおきな森』を書き進めながら、いかに過去作『ドッグマザー』が自分の内側に生きつづけているか、も実感される。本当は、この2作はひとつの本にしたほうがいい。現状では不可能だけれども、いつか、『ゴッドスター、ドッグマザー』とのタイトルのもと、通して読める本になったら。そんなことを願望する。それが「理解させる」ということなのだろうと。あと、似たような望みでは、文庫で『沈黙/アビシニアン』とカップリングされたものは、いつの日か、単独で読まれる形に戻ることも夢見る。この形態はこの形態で、リリース時に意味があった。でも、昨年12月の明治大学シンポジウムで、複数の方が『アビシニアン』の書き出し(の力)に触れてくださった時、ああ、『アビシニアン』の冒頭がそのまま1行めである本が、簡単に手に入ったほうがいいのだ、と痛感した。これも、実現はこの現況では不可能だ。しかし、望みというのは書きつけておいたほうがよいだろうから、直感に従ってそうする。望み。望みと言えば、もちろん画廊劇の台本に意識を向けながら、同時に岸田戯曲賞の発表のことは気にかかっている(と率直に書く)。なにしろ来週だ。普段、文学賞の候補うんぬんの時は、まあ「なるようにしかならないから」とあっさり構えているのだが、正直、いまは緊張している。というのも、僕の戯曲『ローマ帝国の三島由紀夫』が、このまま「昨年、ある雑誌に載っただけ」の作品として世界から消えてしまうのか、否、上演も含めて大きな可能性を得るのか、が明らかに分かれることになるから。来週の火曜日に。まるで母親のような思いだ。そして、作家というのはつねに母親だ。しかし、その来週の火曜日の前には当然ながら来週の月曜日があって、そこは今年の3月11日だ。日経新聞で連載しているエッセイは、月曜日が担当なので、この日は、現在僕が何をどう感じているのか、を記す。いろいろなことを、何もかも、率直に。
20190307