昨日、展示を目にして、愕然としました。今日が3月22日で、近藤恵介くんとの「、譚」展のスタートの日なので、昨日とはその設営の最終日です。2016年夏以来の2人展では、役割は明確にふたつに分けて、展示に関しては近藤くんが責任を負い、画廊劇に関しては僕が担う、という了解で進んでいたのでした。その展示、これはもう、見事に強烈です。すばらしい。まあしかし、自分の(でもある)展覧会を、こんなふうに「すばらしい」と言うのも馬鹿げているので、あとは、可能な方は、足を運んでみてください。僕は作家の《肉筆》という主題がこれほど現前化したことにも、素直に驚いています。朗読活動は、当然のように作家の《肉声》の極み=臨界を幻視せんとする渾身のアクションですが、近藤くんとお互いに追いこみ合ってコラボレーションを続けたことで、2011年春以来の共作は、このような「痕跡」を残した。大事なのは、そうした跡が、まだ何かを産んでいる、鑑賞者がいればたちまち何事かのクリエーションをはじめる、との事実であり、これはすなわち「作品そのものの側からのアクション」です。かつ、もう書いたけれども、それは鑑賞者不在では始まらない。最高に能動的な美術だな、と感じ入ります。いずれ語ることもあるでしょうが、日本文学とは日本美術に含まれるものであって、そのこと=日本史をきちんと踏まえつつ、僕はおおよそ2010年頃から「駆ける姿勢」をとり続けてもいます。まあしかし、判断は鑑賞者に委ねますので(当然です)、代官山の LOKO GALLERY に足を運んでもらえたら、うれしいです。今回のフライヤーというかDMも、僕と佐々木敦さんの共著「『小説家』の二〇年 『小説』の一〇〇〇年」の装幀を手がけられた戸塚泰雄さんにデザインをお願いしているのですが、これも素敵です。全部、「、(てん)」しています。このDMは会場で入手可のはずですので、ぜひ、どうぞ。それにしても、ギャラリーや美術館での仕事もけっこう数を重ねているという恰好になりました。ギャラリーでは《肉筆》が前景化し、いっぽう美術館では、だいたい演出作品を出しています。思えば東京国立近代美術館の2012年の朗読も、あれは《肉声》を前に出すのと同時に、みな演出に強烈に反応した、していた。ああいうのが、演出なのだな、と感じます。ある「構造」とか、ある「異化」というか。そこから判明するのは、自分は「空間を前にしても、小説を書いている」のであって、これは「いっさいを文学化する」行為なのだろうな、との(ある種の)確信です。場所に対するアクション、時間に対するアクション。僕は、どうして自分がこんなにものを作りつづけるか、は、「そこに白紙あるからだ」と思いもします。今度の画廊劇ならば、そこに白紙の空間がある……だから、埋める。その空間を、小説に、文学にする。そうしたことを目論んでいます。自分自身に関してはあと数十時間の稽古が必要だとわかったので、やります。さて、LOKO GALLERY のプロジェクトは、そんな流れです。そして、大事なことを書き落とすところだった。この「お便り」は次回で最終回です。で、俺は、このサイトをどうするのか? さて、どう……どうするか? ただ閉じていいのか?
20190322