新しい小説は可能か?

新しい小説は可能か?

2019.05.25-06.14 東京

ゴールデンウィークから昨日までで、およそ300枚ほどの原稿を書いた。小説に限定して、それだけ書いた。また、棄てた原稿は(推敲のため、だが)200枚ほどだったかと記憶する。やや限界まで行った。と同時に、従来の自分には到達できなかった高みが見えはじめた。そのことに安堵している。そのような「高み」が望めなければ、そもそも登攀することが叶わない、から。君はもう登らないでいいんだよ、と言われたり、ほら降りればいいじゃないか、もう登るような「時代」じゃないんだよ、と言われたら、私は絶望するだろう。いや、それは嘘だ。

たしか2007年10月のことだったと思うが、京都造形芸術大学のライティング・コースで授業をした。講義にゲスト出演をした、というのが正しいが。その講義後に学生たちとの懇親会があって、ひとりの女子学生から「どうしてそんなに急いではるんですか?」と真顔で問われた。その時、私はなんと答えたのだったか? もう憶えていない。しかし、「急がなかったら振るい落とされるのだ」と言いたかったことは憶えている(……ということは、そのようには答えなかったのだろう)。自分の内側にある衝動を、当時はうまく言い表わせなかった。いまならば言える。危機感だ、と。

絶望するのは思いのほか楽だ。そして、楽な行動を選択すれば、だれかに統率される。要するに「群れに入れられる」。群れから出るための個人的な格闘を試み、あるいは、群れの内側で苦悩している人たち(それらは私の「同胞」だ)のために、何ごとかを書こうと、歌おうと、撮ろうと、描こうとした人間たちが、結局は「群れに入れられる」のだとしたら、絶望には意味がない。一切ない。このことをロジカルに考える。

『平家物語 犬王の巻』という小説は、私にとって唯一の体験を与えている。それは、この作品の最終場面を書いている時に、著者である自分はボロボロと涙をこぼしていた、というものだ。泣きながら脱稿した、という本は他にはない。どうして私は泣いたのか? 私は、世界(社会)の現実を見て、かつ、それでも希望を幻視した。『犬王の巻』は、芸術=文化と権力=神話の物語であって、前者はあっさりと後者に潰される。殺される。しかし、それでも。私は「それでも」と思ったのだ。いま現在も思っている。そろそろ、抗いのためのモードを、より可視化する。ひとはそれを戦闘モードと呼ぶのだろう。