祈りは憎悪に似る

祈りは憎悪に似る

2019.07.27-08.09 東京

そして私は極度の集中を続けている。具体的にはふたつの小説の執筆(および構想)に専念すると同時に、来年の夏のプロジェクト、に意識も飛ばし、かつ、最新刊である『グスコーブドリの太陽系』のこと、宮沢賢治のこと、『平家物語』のこと、それを含めた古典のこと、海外に出す自分の翻訳作品のこと、そうした作業を並行して進めて、だが幸い、私はまだ分裂していない。なぜか? 小説がそれを私に許さないからだ。文芸誌「群像」連載の巨篇『木木木木木木 おおきな森』はいよいよ残り枚数は250枚ほどになった。そして来月上旬に某誌に発表する新作に、いま、血を流しつつ専念している。

血だ。指先から血が流れるような執筆をしたい。コンピュータが濡れるような、壊れるような文章を、と願うのだけれども、それは自分を破壊することで、そこまでは進めない。しかし作品のほうは、つねに私にそれを求めていて、もしも「そんな要求には応えられません」と言ったら、私は振り落とされるだけだ。つまり、小説(作品)とは乗り物であって、私は操縦するのだけれども、じつは「誰に運転させるか、操縦させるか」は、乗り物のほうが選んでいる。お前はそれに相応しないと判断されたら、私は切られる。だから必死である、というそれだけだ。

私は作品を完成させたい。書いて、書いて、書きつづけたい。それは祈りだ。しかし、その実践はどこかで暴力的な、血まみれな、憎しみの臭いすら放つ。この事実は無視されがちだ、と私は思う。先月末、東京を訪れたダンス・カンパニー Noism の公演を見た。結成15周年記念公演であって、新作「Fratres I」には度肝を抜かれた。これほどの強靱さ、これほどのイメージの凝集、ダンスならではの力。そして、そこには祈りがあるのだけれども(それが作品の主題だ)、同時にたぎるような怒りが満ちている。だから凄かった、という点は無視してはならない。Noism は新潟を拠点とし、地方自治体(とは新潟市だが)が資金的にも支えているはずだけれども、いま活動継続問題が出ている。公費と表現、という例の問題。しかし、大切なのは。大切なのは。

大切なのは祈りであり、祈るような表現をする人間たちを、世間が必要とするか、だ。人は、普段、祈る余裕がない。だからこそ「誰かが代わりに、全力で、全身で、命がけで祈る」のだ。違うだろうか? そうした人間を「うざい」という者がいて、私は当然だとも考えるが、同時に、何者にも知られないところで私は血を流したっていいのだ、とも思う。