小説、その破壊的で創造的な

小説、その破壊的で創造的な

2019.09.14-09.27 東京

長篇(巨篇)小説の最終回の執筆は、残すところ3日となった。そして、目標の枚数に、あと30枚以内のところにまで私は来た。要するに、私は「やれるのではないか」と感じている。この2週間、張りつめた日々を送った。時に精神状態は悪化した、が、決して小説を損なわないように、傷めないようにと努めたし、それこそが最優先の事項だった。そして、そこは守れたのだ、と断じ切れる。すでに原稿用紙1500枚を超えた『木木木木木木 おおきな森』は、私の予想を超えている。

予想を超えている、とは、たとえば実情としてはこうだ。具体的には今月の19日、私はこの小説を朝から晩まで書いて、書いて、書きつづけて、その日に原稿用紙20枚を書いた。よい出来だった。翌朝、私は何かが足りないと思ったし、むしろ「何かが余分なのではないか」と、言葉にはならないところで感じた。だから、午前8時半だか9時だかに「昨日執筆した分は、1文字残らず書き直す」と決めた。厳しい判断だった。そんなことをしてしまったら、間に合わない。小説を無視する結果となる(に決まっている)。それから書き直して、推敲して、考えつづけて、結局、昨日の執筆パートに4枚か5枚、余分なものが挟まっていると気づいて、あっさり全部削除した。そして、それでも書いて、書いて、前進したのだけれども、仕上げたトータル枚数は20枚で、その意味では前進はゼロだ。だが、決定的に前に進んだ。

以前から口にしていることだが、私は小説に取り組む際に、「自分が生きているこの現実から離れる」ことを必要とする。つまり、実際の生活は無なのだと考える。そうやって小説の世界・宇宙としか言えないところに飛び込もうとする。けれども、入れない時がある。そうした場合、私はどこにいるのか? 昔だったら「俺は地獄にいる」と答えた。「地獄に落ちている」と即答した。はたして、そうなのか? 私は、書けないからといって、この現実に戻れるわけではない。そして、小説の世界・宇宙にも入れていない。すると、私はどうにも説明しようのない場所・空間にいるわけで、そこをシンプルに地獄と言ってよいのか?

むしろ、煉獄(リンボ)なのではないか、と考える。キリスト教で言う「天国と地獄の間」だ。洗礼を受けることのなかった幼児たちや、キリスト誕生以前の人間は、みな、地獄にすら行けない(とキリスト教は訴える)。そうした霊魂たちが向かうのが煉獄だ。私は、きっと文学的な煉獄に堕ちている。かつ、この煉獄は私に固有のものではない。私は思うのだ、あらゆる「書けない作家」は、同じように煉獄に堕ちるのではないか? 言い換えれば、同じ煉獄に堕ちるのではないか? 私がここで語らんとしているのは、ただひとつのことであって、私は、その煉獄にさえ向かえれば、あらゆる古今東西の文学者と同じところにいられる、ということだ。いつか、こうした実感を、もっと批評的なちゃんとした文章にしたい。が、いまは。ただ……ただただ『木木木木木木』の脱稿をめざす。