誤読について

誤読について

2019.10.12-10.25 東京・福島(郡山)

私はまず、シンプルにこう尋ねたい。「小説は誰が生むと思うか?」と。たぶん、おおかたの人は「もちろん作者です」と答えるのではないか。そんなことはない。小説を生むのは、それを〈読む〉人間であって、つまり読者だ。作家にできるのは〈書く〉ことだけであって、せいぜい1個の宇宙(=小説宇宙)を生み出すことしかできない。そして、ここからが肝腎なのだが、あらゆる読者が必ず誤読する。〈読む〉という行為は、読者それぞれの人生経験なり価値判断なりに寄り添ったものであって、簡単な例を挙げれば、ある日本人の女性の登場人物が「美しい」と描写されていたら、その言葉が連想させるキャラクターの顔は、それぞれの読者の「美しさ」観に基づいて生まれる。そして、そうした「美しさ」観は、ひとりひとり異なるのだけれども、その理由は、それぞれの人生が異なるから、と言い切れる。

作家が、1個の宇宙を生む。それを読む読者がたとえば10人いるとしたら、さらに10個の宇宙を生む。それが読書体験なのであって、これを「誤読だ」と言い出したら、じつは読者の人生そのものを否定することになる。

先日、台風19号が襲来して、あまりにも胸痛むような被害が列島の各地に生じた。この台風に関しては、私は福島民報紙に書いた。私はこの新聞に毎月1回の連載というのを持っていて、それも2015年4月からずっと続けている。私は、そこで書いた内容を、ここで語り直そうとは思わない。なぜか? 民報紙に発表している文章は、基本的に福島県内の人に向けて書いているのであって、福島県外に向かって発信するためには別な言葉・別な(角度の)視線が要る、と判断しているためだ。要するに、私は不特定多数に投げる文章というのを、あまり好んでいないし、そうした文章の有効性を、そんなには信じてもいない。読み手の「拠って立つところ(=人生そのもの)」が異なる時に、どのような些細な文章であれ、その文章はあまりにも様相を変えてしまう。

私は、誤読は必然だと肯定的に考えるからこそ、不特定多数に発信することの恐怖を思う。私は、そうした恐れゆえにSNSと呼ばれるものに触れられないでいる。これは別にSNSを否定した発言ではない(私の「精神的な脆弱さ」の吐露ではある)。だが、そもそも私は不特定多数に向かって小説を書いていない、とは言い切れる。私の小説は、率直に言って暇つぶし(のために読む)には不適当だし、年に1、2冊の本しか読まない、という人たちには相当に歯ごたえがあり過ぎて、たぶん(数ページを捲るだけで)苛立たせる。そうしたことを私はちゃんと自覚している。しかし私は「特定」多数に発信するためには、最大限の努力をしている。そして、ついに最終回の校正ゲラを戻し終えた『木木木木木木 おおきな森』に至っては、コンピュータ上でも縦書きの誌面形態のゲラ上でも、さらに横書きのプリントアウトでもなんでもかんでも、徹底的に推敲を進めている。私は、届けたいから、そこまでやる。

私は「特定」多数というものを信じたい。ある幅の内側にとどまることによって、誤読はつねに豊かな可能性の発生源になる。というか、ポジティブな可能性の源にしかならない。そう信じたい、と宣言すると同時に、もう私は信じているのだ、とも改めて認識する。