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現在にいながら過去と未来を観る(ために)

現在にいながら過去と未来を観る(ために)

2019.10.26-11.06 東京

ふだん、この「古川日出男の現在地」の原稿は第2金曜日か第4金曜日に書いている。つまり、たとえ小説の執筆があっても、更新されるその当日に自分の現況を語る、ということに努めている。しかし、今回は更新日よりも2日前に書いて、そうした「古い原稿」を載せる形となった。事情があって、そうする。その事情のためにというわけでもないのだが、思考はありとあらゆる方向に(いわば360度に)ひろがっている。順々に綴る。

とうとう『木木木木木木 おおきな森』の最終回が活字になった。200枚の一挙掲載というのは、やはり重みというか、深みというか、そうしたものの横溢を感受させる。連載には「扉」が付いて、その「扉」のデザイン(というよりも顔)に感動した。そうなのだ、森がある、星がある、夜がある、そして流星は、そこに時間が刻印されていることを伝えた。ああ、完結したのだな……と改めて感じる。もちろん、私の作業はこれからなのだし、と同時に、本にする作業はすでに起動しているのだけれども。

本、ということでいうならば、2016年春に上梓した『あるいは修羅の十億年』が今月文庫になる(集英社文庫、11月20日発売)。装画も、解説も、本当に信頼できる人たちにお願いできて、かつ、実際に素晴らしいものがあがってきた。この『あるいは修羅の十億年』は、まるっきり「顔つき」を変えると思う。じつはこの数カ月の間に、執筆のはざまに『あるいは修羅の十億年』のゲラを二度通して読むという作業もこなしていたのだが、そこには、(1)「(この本で何を書こうとしているかを)わかってほしい」との劇烈な衝動と、それと同時に、(2)「(この本は東日本大震災を主題としているから)わかってもらえるとは思わない。むしろ、安易にわかられることは拒絶したい」との衝動が猛烈に暴れまわっていて、それらは相剋しているのだと客観的に感受された。だから私は、その、ほとんど必然的に生じてしまった「難しさ」を、文庫というパッケージに変えることで、ただの「噛み応え」に変えたいと願った。何かはできたのではないかと思う。ほとんど本文はいじっていないのだけれども。

佐藤優さんと富岡幸一郎さんの『〈危機〉の正体』という対談本が刊行されて、そのなかの1章で、拙著『ミライミライ』が課題図書として採りあげられ、読み解かれていた。主題が「国家の本質」なる章であるだけに、本当に光栄だった。佐藤さん富岡さんのおふたりはキリスト教信仰を持ち(あるいは「キリストに対する信仰」を持ち)、だからこそ世界は「読み解きうるもの」としてその眼前にある、というのは、こちらにも強烈な自覚を促す。極めて初歩的/前提的なことをここに記せば、私が幾ら思惟したところで、私は、この私を外側から眺めることはできない。その「外からの視点」を取り入れるために他者と話したところで、他者も私と同様に〈人間〉であるのであって、結局は「『私』の内側」を共有してしまう。そこを突破するためには〈超越者〉は要る、ということを受容しないかぎりは、どこにも進めない。私はもちろん私なりに超越(した何事か)を見据えていて、それは〈彼岸〉としか名づけられないのだが、あらゆる私の文学活動/表現活動は、ここに根を張る。

いつも活動をともにしてくれている河合宏樹くんが、映画『うたのはじまり』を完成させた。来年の早い段階で、劇場で観られることになる(はずだ)。私は、一歩さきに観た。凄い映画だった。ほとんど「言葉にならないな。いま抱えている感情は」と思いながら、しかし鑑賞の数分だか数十分後だかにコメントをしたため、河合くん本人に送っていた。だから、私がいちどめの鑑賞で何を感じたかは、いずれ公になる。そのコメントとは別のことをここに書けば、これは河合くんと語り合ったことなのだけれども、私は作家の中上健次とアルベール・カミュが「ともに『文盲の母親』を持っていたこと」を思った。そうした母親を持ちながら、彼らが小説を執筆する人間になったことを想い起こしていた。私が言う〈彼岸〉とは、これらの事実に(にも)表わされているもの/内在するものなのだ。