努力のこととか

努力のこととか

2019.11.23-12.13 東京・静岡(御殿場)

何年か前にある大学で講演のようなものをして、その際、私は自分が「努力」について語ると学生たちが仰天する、という反応にけっこう仰天した。「努力」に意味があるとか、日々「努力」して執筆を続けるとか、そういう実践(現実)を眼前にすることがほとんど無いのだな、と知って、時代はまるっきり変わったのだと思い知らされた。あと、もうひとつ、これはこの1、2年のあいだに痛感しているのだけれども、「孤独」も相手にされていない気がする。小説の執筆はひたすら「孤独」との対峙なので、そこに価値が認められない状況というのは、しんどい。

きっと若い人たちは「努力」も「孤独」も忌避しているのだろうな、と書いてみて、私はすぐに、若い人たちなんて書き方が必要になってしまうほど俺は老いたのだなと愕然とするし、忌避って言葉でいいのかと推敲モードにも入る、のだけれども、それは本題ではないので、このまま話を続ける。私はしばしば「孤独」で、しかしながら、そうしたこと(苛酷なシチュエーション)が続けられるのは、正直に言えば「本気で悲鳴を上げれば、あの人も、この人も、あいつも、こいつも、駆けつけてくれる。助けてくれる」と信じられているし彼ら彼女らの顔も名前も即座に浮かぶからであって、つまり、「だから(本気ではない)悲鳴は俺はいっさい上げない」との姿勢を貫けている。それによって私はある種の必要な/逃れられない状況下での「孤独」を完遂する。私は要するに、彼ら彼女らの顔と、名前とに力を与えられて、孤立し、孤絶する。

「努力」というのは何かを夢見ているから為しつづけられる、というのは事実であるけれども、それは楽観的に将来が見られているというのとは違う。「努力」の背景にあるのは恐怖で、具体的に言えば、二者択一的な状況……「それをするか、しないか」「こなせるか、こなせないか」が訪れた時に、「こなせるかはわからないが、する」という第三の選択を可能にするのは、夢見るように備えてきた「努力」に依拠する、と直観されているからだ。私はいつも恐い。何かが訪れた時に、挑む前に逃げてしまう未来の自分が。だから、しんどいけれども「努力」をする、と53歳にもなってこんなふうに生きている。

なんで今回、こんな妙な文章を書こうとしたのか、その契機を思い出せない。まあいい。ところで私は、この「現在地」コーナーに特別篇として「400字以内小説」というのを発表し(つづけ)ている。毎月第2・第4金曜日以外にも更新したっていいんじゃないか、とか、そういう気持ちもあってスタートさせたような気がするが、ここまでの「400字以内小説」小説をふり返ると、あまりにも〈死〉の主題が多いので驚いた。それはまあ、自分の年齢のことと、昨年来、母親の死が迫りつづけていたことに主因はあるのだろうが、たまには明るい話も書きたいので、書いたり載せたりしている。いっそ、そのうち「古川日出男の番外地」というコーナーも立ち上げたい。立ち上げる、といっても、「現在地」コーナー内のコーナーにする予定なのだが。

来年は、はっきり言って、ガリガリと活動する。しかし、その活動の様相は、今年までのものとは異なるだろう。まあ、いずれにしても、新刊『木木木木木木 おおきな森』は主軸として、来春に刊行される。そのことはブレない。この単行本は、おそらく900ページを超える、はずだ。