そうして不良文士になる

そうして不良文士になる

2020.03.28-04.10 東京

みっつのことを記す。

先がどうなるのだろう、と悩むのはわかる。しかし、先がどうなるのかは、じつは誰にもわからない。地球上の誰にもだ。だとしたら「わからない」ことに悩んではならない。

いまやれることをやる、がもっとも大切で、その「いまやれる」ことは、基本的にはあなたが前々から望んでいたこと、あなたが描いてきたプランに沿うことが望ましい。

しかし、そんなふうに「前々から」考えていたプランは無効になった。だから、そのプランを「いま」という瞬間に修正する必要がある。あなたは、悩まずに、ただ「やれる」ことは何かを考えなければならない。

文芸誌「群像」最新号に私のインタビューと、そのインタビュアーである波戸岡景太さんの『木木木木木木 おおきな森』論が載った。波戸岡さんの論には感動したのだが(著者を感動させる批評、ほど最高に創造的なものはない)、その文章内で彼は古川を「不良文士」と形容した。私という人間は、世界/社会の不良分子にはならずに、不良文士になった。その痛快さは、何かを救うと感じる。少なくとも私が救われた。ひとりがひとり/ひとり以上にウイルスを感染させるかもしれない時代に、私たちにできることは、ひとりがひとり/ひとり以上を、救ったり、感動させたり、そういうことをすることだ。

私は不良文士と命名されて、『おおきな森』は、担当編集者(やその参照元たる読者)のおかげでギガノベルと命名された。その不良文士の、最新著作であるギガノベルは、予定されていたイベント群は催せず、刊行はされる(だろうと思う)が人々は数都府県で自粛中であり、その他にもマイナス要素ばかりがある。だからどうした? いま、本が出るということは、何かが「生まれる」ということであり、あらゆる死を悼むために、その「生まれる」がたったひとつでもできることが、私の存在証明である。

われわれは、笑えばいい。われわれは、泣けばいい。あなたたちが不良になることを祈る。