私は何も語っていないわけではない

私は何も語っていないわけではない

2020.07.11 – 07.24 番外地

誰かが安全であることをイメージして、自分が安堵するのだとしたら、それは幸福な情景だ。誰かの安全な状態のために、全力で何事かを為そうとするのならば、それは(どのような意味においても)立派な人だ、と私は感じる。また、誰かに安心を与えたいと願ったり、誰かの安心を目的として実際に行動する人たちのことを、私は(やはり、どのような意味においても)素敵な人だ、と思う。そのどちらにも決意がある。覚悟がある。が、しかし、「安全安心」という言葉の軽さはどうだろう?

どうして四字熟語にするのだろう? 安全、という言葉は切実で、安心、という言葉は真摯で、なのにアンゼンアンシンはただのチンプンカンプンの呪文だ。アンゼンアンシン、アンゼンアンシンと繰り返せばよいのか。それで何かが達成されるのか?

同じような四字熟語に「不要不急」がある。不要、とは要らないよとの意味だ。不急、とは差し迫っていないよとの意味だ。二つ合わせて、でも……これはいったいなんだ? 人間はいつか死ぬ。誰だっていつか死ぬ。だから……命とはなんだ? いずれ死ぬのだから要らないのだとも言える。生きることなど急ぎではないのだとも言える。

嘘つけ。

私は、そんなふうには思っていない。私はこのコロナの時代を、とことん9年前の日本とダブらせている。