ふたたび県外に出る、ということ

ふたたび県外に出る、ということ

2020.08.29 – 09.11 番外地・東京

先々月の下旬から19日間、私は福島県内を歩きつづけた。その19日間を、まる21日かけて文章にした。「280キロを歩き直した」と表現するのが正しいのだろうと思う。あの時、いったい何が起きたのか。どのように準備したのか。何を聞いて、何を見たのか? それよりも「何を考えた」……のか。それらを追体験するというのは相当に体力の要る行為だった。結局、朝は6時台から作業を始めて、遅い場合には夜の10時台まで作業した。私は、自分が東京にいるとはとても思えなかった。あの時の、あの〈番外地〉にいるのだとしか感受できなかった。

実際、いたのだろうと思う。今朝はそこから脱け出して、だいぶポカンともしているし、ぜんぜん違う種類の集中を開始しようともしている。私は……何かを食べたいのだけれども、私は、何を食べたいのだろう? エネルギー摂取と食事の差異がうまく捉えられない、とも説ける。しかし、唯一言えるのは、私は「書き抜いた」ということ。

少しだけ、まとめを語る。たとえば〈現在〉があり、私たちはそこを生きる。このコロナ禍で、仕事をどうしようかなあ、とか。それから〈過去〉がある。昔はよかったけど、いまは関係ないなあと感じるし、同時に、昔はいろいろあったなあとも回顧する。おおかたの人びとにとって東日本大震災は〈過去〉だ。そして、なんとなくでよいのだが、「それって過去だっけ?」と反問する瞬間に、初めて〈未来〉というのが姿を現わす。

ずっと〈現在〉にいつづけては、人は〈未来〉には到達できない。当たり前のことだ。私は〈現在〉から出たい。