僕たちは円を描いている

僕たちは円を描いている

2021.03.27 – 2021.04.09 東京

日々の繰り返しにはどんな意味があるのだろう? などということを、仕事を終えてから考えた。仕事というのは、私にとっては初めてとなる文芸誌の新人賞の選考だった。文芸誌でなければ、賞の選考委員というのはしたことがあるし、現在もしているものがある。ただ、今回は「本業の場で、自分は『選ぶ』ということをやるのだな」と意識した。つまり妥協を排して臨んだ。大雑把に言えば、最終候補に残っていた作品(長いものは250枚ある)はどれも質が高かった。どうして、このようなクオリティを持てているのか? その答えは、なんとなく理解できる。みな、「いま現在、自分がいる場所から脱け出すぞ」との意志を持っているからだ。つまり、「作家になって、変わ」ろうとしている。

その賞のことを続ければ、推すべき作品の「よさ」を自分なりに論理的に言葉にして、整理し、やれることはやりきれた(推していた作品は残せた)。で、ここから話をふたつの方向に分離させるが、賞といえば、私の小説『あるいは修羅の十億年』が、先月の11日に「第一回『脱原発社会をめざす文学者の会』文学大賞」をいただいた。その賞状を、つい先日頂戴したのだけれども、拙作をそのように評してくださったこの賞状の文面が、すばらしかった。そこには〈感動〉という言葉が投じられているのだけれども、それを読んで(もちろん賞状をいただいて)感動した。こちらが。言葉というのは凄いなと思った。賞に選んでもらえるというのは凄いなと思った。

続いて、新人がデビューすることに関して。デビューできたら、次作を書けば、この世界に本当に「いる」という形になるのだと想像する。それを繰り返せば、いわゆる〈プロ〉と自他ともに認識する人間となる。私もまた当然のように〈プロ〉なのだが、その職業作家の日常というのは、反復である。着想の瞬間があり(この時は最高に興奮する)、執筆の期間があり(苦しいが、楽しい)、脱稿の瞬間が到来して(未完に終わる場合もある。だからこそ、脱稿は最高にうれしい)、刊行の時を迎える。そして、その4番めの時期には、すでに次作の発想が来ていて……というパターンが多い。つまり、小説の執筆は〈円環〉の内側にあって、ぐるぐる回る。反復する。

これを別の言葉で言い換えれば、どこにも進まない、ともなる。いま自分がいる場所から「脱け出す」ために文字を書き連ねる、という行為ではないのだ。「脱け出す」ことは圧倒的に楽しい(し興奮する)から、人はそこをめざす。しかし、おおかたの〈普通の人生〉は反復から成る。としたら、私たちはどうすべきか? 日々の繰り返しにはどういう意味があるのか? 私自身の答えは、「その反復を、どこまで豊かにできるか、を意識する」にあるはずだ、という(ぜんぜん答えにはなっていない)指針。これが回答である。

連載小説の『曼陀羅華X』を、惰性の反復から〈捨て身〉の反復に切り替えて、そろそろ半年になる。ちなみに、この小説のタイトルはどうしてもマンジュシャゲと言われてしまったり曼荼羅華と書かれてしまったり、そういう誤解がありがちなのだけれども、マンジュシャゲではなくマンダラゲである。曼荼羅ではなしに曼陀羅である。まあ、誤解されやすいタイトルを付してしまった作者の私が悪いのだ、とも言える。すまん。という謝罪はさておき、『曼陀羅華X』は最後の疾走に入ろうと思う。それから雑誌「MONKEY」で連載している『百の耳の都市』。年に3回しか書かない掌篇的枚数のシリーズ、というのは、どうしても惰性の反復に陥りがちで、それを拒絶するために、こちらは反・惰性を意識しすぎていた。ここも徹底的に切り替えることにした。6月に刊行される号の掲載回の原稿は、その切り替えた視座から、書き、もう入稿した。

円を描いてグルグルと回るように生きながら、しかし、同じ円をなぞるようには生きない、ということ。同じ円をなぞっているのに、そのグルグルが円を厚いものにしたり、愉快なものにする、ということ。そこを望んでいるし、みんなも望んだらいいな、と思う。