では、実践に入る

では、実践に入る

2021.04.10 – 2021.04.23 東京

この数週間、というよりも何カ月もの間なのだけれども、だいぶ〈対話〉というのをした。『ゼロエフ』の取材に関して言えば、インタビューも取材者が目の前にいるわけだから〈対話〉で、そうやって1対1というのをやり続けてきた。一部は文字として発表(=掲載)されるのみならず、動画の形で残った。昨年12月に詩人の吉増剛造さんと日本近代文学館で収録した対談映像も、「2020年の声のライブラリー」という形で配信になったし、今年3月に『ゼロエフ』の旅の同行者・碇本学くんと大盛堂書店でやったトーク・イベントも配信された(後者は6月30日までの期間限定)。吉増さんは私の師匠格なので、これは師弟対談である。ちなみに、もうちょっと私の創作と直接的に結びついている点を挙げれば、文庫版の『聖家族』上下巻は、どちらも表紙の撮影は剛造御大が撮影されたものである。私は、デビュー10年の記念刊行となったこの本の、文庫版の顔に、師匠の〈網膜〉を欲した、とも言える。

吉増さんとの対話は英語字幕がいずれ付される予定である。字幕がらみの話を挟むと、映像作品『コロナ時代の銀河』も英語・フランス語・中国語の字幕を準備する予定である。いろいろな人の助力がなければ成立しないので、前もって感謝する。心から。その『コロナ時代の銀河』の監督・河合宏樹くんとも4月22日に〈対話〉をした。いずれ、何らかの形で、人の目に触れられるようになると思う。2時間半話したのだが、ぜんぜん話したりなかった。その〈対話〉のレコーディングが終わった直後に、私は「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をやります、って言うだけで、童話だから子供向けだとか、ファンタジックなフワ〜としたものだとか、勝手に先入観を持たれるのが、ほんと嫌だ」とつぶやいていて、これは大事なポイントだったのだが、ちゃんと深掘りしなかった。たとえば宮沢賢治がふいに現代に生き返ったとする。フワ〜としたものが観たいか? 私は、賢治さんは〈文化度〉が高くてブッ飛んでいる表現に、けっこう興奮するタイプなのではないか、と想像する。いま現在の「宮沢賢治もの」の表現は、ほとんど受け手としての賢治さんを想定に入れていない(=勘定に入れていない)気がする。賢治さんは雨にも負けない人じゃなかったんだよ、負けちゃう人だから「マケナイ人間になりたいのですからぁ!」ってメモに書いちゃったんだよ、という大事な肝所が、完全に見失われている。

そういうところは、本当に嫌だ。

私はいま、けっこうのびのびとこの「現在地」を書いている。だから、宮沢賢治や「宮沢賢治もの」に対する先入観、というか偏見、についても、のびのびと書いている。なぜ、私はのびのびしているのか? いよいよ小説を書くことだけに没入する日が、近づいたからだ。ここまでは「対話」の期間だった。昨年の夏から、ずっとそうだった(と言える。『ゼロエフ』に結実するいっさいの行動が)。しかし、もう切り替えるのだ。いつから切り替えるかというと、4月26日からだ。私は、連載中の小説『曼陀羅華X』を、6月5日に脱稿することにした。

なぜ6月5日か? もしも連載に触れている人がいるならば「あ、そうか……?」と気づく、かもしれない。今年の6月5日は土曜なのだ。そして2004年の6月5日もまた、土曜だった。だから、やることにした。本当は7月15日に上げるつもりだった。しかし早めた。最終回までが雑誌にどのように発表されるのか、単行本のスケジュールはどうなるか、は横に置いて、まず完結させる。この小説は、2019年の6月28日にアップした「現在地」にも詳細を記したが、書き出す前に「連載を取り止める。作品の執筆そのものを中断する」との判断が下されている。しかし、再起動して、起筆された(この時点でタイトルは大胆に変わった)。かつ、これは昨年の10月23日にアップされた「現在地」で告白されたことだが、その時点で『曼陀羅華X』(連載タイトルは『曼陀羅華X 2004』)はほとんど未完に終わりそうな誤った軌道に入ってしまっていて、私は暴力的に修正した。軌道を。

2度も、この小説は死にかけた。2度も、タイトルを変更された。だから、もう、やってやるのだ。きっちり着地させてやるのだ。着地すると同時に飛翔するような、そういったエンディングに、至らせてやるのだ。しかし残された時間は40日と数日である。やれるのか?

やるだけだ。苦しいだろう。死闘だろう。しかし楽しみなのだ。私は楽しみながら、苦しんでやる。そうなのだ、私は最高に「豊かな」執筆期間に入ってやる。職業小説家にとって、小説の執筆はただの繰り返しに過ぎない、と前回書いた。それを豊かにすることが必要だ、と書いた。だから豊饒に、実践してみる。私はウーウー唸りながら、ヘラヘラ笑ってやる。そして、6月6日の朝には、ニターッと笑いながら、寝床から起きあがってやるのだ。さあ、やれるか? という問いはない。ただただ、やるだけなんだよ。