少し前とだいぶ前といまと少し先

少し前とだいぶ前といまと少し先

2021.06.12 – 2021.06.25 東京・神奈川

私の本籍地は東京都東村山市である。もちろん最初の本籍地は福島県郡山市だった。が、結婚を機に、賃貸の一軒家のあった住所を本籍とした。そこには10年も住まなかった。ただし夫婦ふたりと猫2匹との暮らしはどこか幸福を絵に描いたようなところがあって、いまも何度もその家を思い出す。転居後、2度、その本籍地のほうに行った。最初はいまから11年前で、遠巻きに昔の家を見ようとしたら、もう古い家はなかった(違う家が建っていた)。そして2年前、その古い家のあった路地の前まで行ったら、近所の方であろう女性に「この先は行き止まりですよ。なにか?」と怪訝そうに言われた。あわてて「いえ、昔住んでいまして。ごにょごよょ……」とエクスキューズしたのだが、本籍地の前で不審者になる、というのは奇妙な体験だった。そして、戸籍というのは、いったいなんなんだろうなあ、と思った。もしかしたら一般的には認識されていないのかもしれないが、戸籍というのは、世界的に見てかなり特殊な制度である。だいたい、どうして住民票と戸籍と、こういう管理のシステムが二重に存在するのか?

その家には私たち夫婦と2匹の猫が住んでいた、と書いたが、ほかにも、雨戸の戸袋にムクドリが住んだり、キッチンの床を蟻の行列が通ったりもした。そういう「歓迎していない共存」の瞬間は、うわっ、こういうのは困るんだよ、と思ったのだが、もちろんいま思えば懐かしい。そして、その家がすでにこの地上に存在していないこと、が愛しい。私たちは〈それ〉が失われてしまって初めて〈愛しさ〉を育める、のかもしれないと思うと、切ない。そして2021年というこの現在は、あらゆる〈それ〉を高速度で喪失に向かわせている。かつて好きだったあれも、これも、かつて共存していた〈それら〉が、どんどん消えるし、消える予感を漂わせている。

私はじつは、いまのパラグラフに続けて2001年3月のアフガニスタンのバーミヤン渓谷での石仏破壊のことや、その半年後にアメリカ・ニューヨークで起きたこと、かつ、ここ数年アメリカで起きている事象の幾つか(南北戦争がらみの銅像の問題や、大雑把に言うところのキャンセル・カルチャー)について書いたり、去年/今年のオリンピックについて書いたりした。が、どうも焦点が絞れない。だからテキストを削除したのだが、そういう絞れなさにはどこかで「当然だな」という勝手な納得もある。何を話しても誤解される時代になった、……と感じているのは、私だけなのか? ある事柄に関して書いたり語ったりする、すると受け手は、「で、あんたはどっちのサイドにいるんだ? 反対か、賛成か?」しか問わないから、まるっきり言葉が通じない。

「そんなの、昔からそうじゃないの?」と言われてしまっても、たしかに黙るしかない。私としても。だが、何かがとんでもなく加速している。それはふたつ前のパラグラフで書いた「あらゆる〈それ〉を高速度で喪失に向かわせ」ることに通底している、と感ずる。

だから明るい話題をちょこっとだけ挿入すると、マシュー・チョジックさんの監督・脚本作『Toshie the Nihilist(トシエ・ザ・ニヒリスト)』に私はちょこっとだけ役者で出演しているのだが、この短篇映画がロサンゼルスの映画祭 LA Shorts International Film Festival7月にプレミア上映されることになったそうだ。完成作をこないだ観せてもらったのだけれども、すごく愉快でチャーミングな映画だった。ちなみに自分の演技には苦笑した。ふだん、私が確認する「映像に映った自分の姿」というのは、トークをしているか朗読をしているかのどちらかしかない……ので、どのようにスクリーン的に切り取られるかがイメージできていなかった。「なるほど。こうなるのか」と学習した。私は、たぶん学習能力はそれなりに高い方だと思うので、機会があればまた楽しくそういうこと(?)にも臨んでみたい。

そういう、みんなで楽しく遊べるような場にいつづけながら、もちろん焦点を絞るべきは文学である。4月に掲載された東京新聞のインタビュー(ウェブで読める)で、私は本当に正直に、「じつはもう、この先は小説が書けないところまで来ていた」と告白した。そうした限界を自分が突破できたのは、まず『ゼロエフ』というノンフィクションを上梓できたから、だし、それに続いて連載小説の『曼陀羅華X』(すなわちフィクション)を〈脱稿させる〉との死闘にダイブできた(し、脱稿させた)からだった。その先のことをずっとこの2週間は考えていて、たぶん、私は、とんでもない飛躍には入った。

しかし焦ったところで、完成や達成が早まる時代ではない。私は過去に対する〈愛しさ〉をいっぱい抱えている。ここから必要なのは、きっと、未来という「まだ来ていないもの」に対する、幻想にも似た〈愛しさ〉なのだ。そうした〈愛しさ〉の群れをエンジンにすることなのだ。