希望のありか

希望のありか

2021.08.14 – 2021.08.27 東京

やれるんじゃん。と思った。この文章は前回の「現在地」の続きだとも言える。あそこで放り出しては、その後に起きた事柄をなにもフォローできないから、こう文章を始める。つまり東京パラリンピックだ。その開会式だ。それはさまざまな点ですばらしかったし、その、どの点に各人が反応したかはそれぞれである(し、それぞれであって全然よい)と思うので細かいコメントはしない。どうしても記したいのはエンディングだ。パラの聖火は、3人の最終聖火ランナーによって「同時に」灯された。1人ではなかった。常識=ルール=強制である「1人に絞る」という選択をあっさり放棄して、3人にしてしまい、それによってありとあらゆることを〈表現〉した。これを観ている時には私は泣いた。

2017年に私は、『野生の文学(ワイルド・リット)を追って』という長めの評論を文芸誌「新潮」に発表した。たしか10月のことだった。たしか原稿用紙で110枚を超える分量があった。本にはなっていない。いまだ、そうした類いの原稿を収める〈容器〉になる本を出せていない(構想できていない)。それはさておき、そこで私が結論として言いたかったことは、「今後は、規格外の商品(文学)を、流通ルートにのせなければならない」という主意。私たちは、それを〈商品〉にしようとする時、ある形に落とし込もうとする。もしくは、「落とし込まなければ、流通させないよ」と威圧される。そこに刃向かわない限り、たぶん未来は絶える……と私は言いたかった。その未来とは、小説の未来、文学の未来だ。

やっと時代が変わってきて、「美味しいけれども、形の悪い野菜」などが、当たり前のように流通する風景が目に入りだした。むしろ、まっとうな評価を受けている(し、対価も払われている)。そこなのだ。そこを小説も目指せよ、と私は告げたかったのだし、たとえば昨年春に出したギガノベル『木木木木木木 おおきな森』は、もちろん、自分としてのその実践でもある。あの本の厚みを、こんど定規で測ってほしい。

私は(われながら)悲しいことに、規格に沿った商品が、流通ルートで最優先されて扱われて、いわゆる「超うまくいっている」状況を目にする際、不意討ちのように〈嫉妬〉のような感情にさらされる時もある。しかしながら、私はそのキャリアの起点から、結局のところ〈規格外〉だった。私という作家が、また、私の著わした作品が、「どのジャンルに入るのか」と問われても即答はできない、との歪さを具えていたし、たぶん現在も具えている。私は、自分が〈規格外〉で、イコール、ある種の妖怪変化であることを自覚している。なのに自分を苦しめる感情に遭遇する瞬間、圧倒的に悲しいし、情けない。だが、……だが。

私は、希望は観た。このコロナ時代の、この2021年の夏の、この日本に、だ。この東京に、だ。私は私を本当の意味で駆動させようと思う。私の脳に、Driven by the Wild Literature とのフレーズがある。野生の文学に駆られて、作動させられて、ふたたび徹底的にやる。規格外とはどういうことなのか、示すために、静かにこの身を、鞭打つ。