鞭打ちながら

鞭打ちながら

2021.08.28 – 2021.09.10 東京・静岡

二重の意味で自分たち家族の暮らしの〈激変〉が起きる2週間だった。そのうちのひとつは、大変な緊張状態や悲しみにも彩られている(ので、ここでは公けには記さない)。言えるのは、ここから〈激変〉後の、大きな段階に私は向かうであろうこと、だ。じつは三重の意味で変化が起きた期間でもあって、その第三のものならば記せる。私は12月に発表する単発の、大きな原稿を脱稿した。そこでのターゲットは紫式部である。これは自分のなかで考えているプロジェクトの前半部分なのだが、いずれにしても〈達成〉は見た。東京オリンピックとパラリンピックが去って、そういう「空洞」を抱えた日本に必要なのは、あるいは政局だと言うひともいるのかもしれない。あるいはコロナの環境の変容? 私は私なりに、その「空洞」に1000年前の日本を入れてみることにした。なにしろ政治のアクチュアリティというものは、そこにもある。やろうとしたことはそれだけではないが。

そして紫式部という大先輩との異様に密な対話を続けているあいだに、私の『平家物語 犬王の巻』を原作にしたアニメーション映画『犬王』ヴェネチア国際映画祭でワールドプレミアをむかえて、また、私の現代語訳をベースにした『平家物語』のTVアニメーション化の情報が解禁になった。どちらもそれぞれにすばらしい(匂い立つ力がまるっきり別種だ)。いろいろなクリエーターが、壮絶なる挑戦をここにぶつけているのだな、と思うと感動する。私の小説は昔から「映画化は無理ですよね……」と言われてきたのだが、アニメという手があった。そういう手段があることは、とはいえ、私自身はだいぶ前から気づいていて、個人的には『アラビアの夜の種族』『ベルカ、吠えないのか?』『MUSIC』の3作はアニメーションで観てみたいと考えていた。まあ、私がそんなふうに考えたからといって、即アニメ化、になるわけは全然ないのだけれども。

『アラビアの夜の種族』という題名を記してみると、その執筆の最終盤に、サウジアラビアに2週間ほど取材に行っていたことを思い出す。大統領選の時期だった。2000年だ。その翌年、秋に、私は今度は『サウンドトラック』の取材のために小笠原にいた。10日ほど現地に滞在していた。早めに寝るようにしていて、ある朝、起きてニュースを観たら、異様な映像が映っていた。「何が起こっているのだ?」と目を剥いた。倒壊するビル。ニューヨークの。つまり同時多発テロだった。それから20年になる。サウジアラビア、ニューヨーク。あとはアフガニスタンか。私は『ベルカ、吠えないのか?』のなかで、かなり詳細にアフガニスタンの現代史を扱っていて、そのアフガニスタンが「いま、こうである」ことに、どこか追いつめられるような気持ちになる。誰かが何かを解決しようとして、結局は、数十年後に紛糾させるだけであること。そういうのは政治の本質なのかもしれない。国際政治を見つめつづけたり、1000年前のドメスティックな政治にダイブしたり、そういうことをしていると、ある種の諦観にうたれて、「憂し……」とつぶやいたりもする。だが、やるしかない。

その「やるしかない」とは、小説家は小説家なりに、世界に対峙するしかない、との意味だ。トマス・ピンチョンの『ブリーディング・エッジ』はじつに痛快な作品で、こういう小説がいわゆる「9・11」を扱っている、という点にこそ学びがある。私は、毎度毎度の宣言なのだけれども、〈規格外〉の現代日本人作家として、まっとうには扱われずとも闘争しつづけるしかない。河合宏樹くんとの『コロナ時代の銀河』をめぐる対談も公けになった。私は結局は、あの3回の対話シリーズで語られるようにしか生きていない。おまけに、私は今月とうとう「新潮」誌上で『曼陀羅華X』を完結させた。私は、とどのつまり、あのような、ある種の〈乱暴きわまりない救済〉しか求めていない。そして、その『曼陀羅華X』という小説ですら、私の〈激変〉直前の段階におかれた作品でしかない。