さらに大胆に前進する

さらに大胆に前進する

2021.12.11 – 2021.12.24 東京・埼玉

メリー・クリスマス。そして2021年最後の「現在地」です。とんでもない年だった。私は、この自分にとっての最大級の変化(変革?)の1年に、こうしたリアルタイムな記録を残せてよかったと思うし、リアルタイムで読んでくれている人たちがいて、自分は幸福だとも思う。最大級の変化、と書いたけれども、その根拠はまずは「雉鳩荘」への転居であるし、それから『ゼロエフ』というノンフィクションの刊行があって、他にも表現活動における〈画期〉となるアウトプットが複数あって、そして、さらにある。この2週間のうちにそれはあった。私は病院にふた晩泊まって、両眼の白内障の手術を受けた。

たしか2月と3月にここ「現在地」で私は白内障に関する最新報告をした。その後は触れなかった。いっさい触れないでいたのは事情があったためだ(その事情については書かない)。私は、4月にかかりつけの眼科医のところに行き、率直にいろいろと相談した。8月に再び相談しようとして、仕事および私生活(身近な人の死があった)の慌ただしさから、それは9月になって、そこで手術の決断をした。手術を「する」と。それも左右の眼球ともに、と。10月、新しい手術さきを紹介されて、その執刀医になる方とも、いろいろと話しあった。

決断というか選択しなければならないことは、他にもあったのだった。私は強度の近視であり、最近では、たとえば本は片目の3センチ程度手前に置かなければ1文字も読めない、といった状態だった。今度の白内障の手術を受けると、私は人工のレンズを通して「見える」ようになる。しかし、人工のそれだと、ある1点にフォーカスが合えば、他には合わない……自力で「調整する」ということが不可能になる。ここで選ばなければならないのは、〈どこ〉がいちばん両眼の焦点に来るか、来させるか、だった。簡単に言うと、遠いところが見えるようになる、あるいは、洗面台で鏡の前に立った時に、クリアに見えるようになる、等が選択できて、かつ、ひとつを選んだら、他はボンヤリするのだ、ということ。

自分を駆った衝動は、たぶん、ふたつある。私は〈空港恐怖症〉みたいなものを持っていて、それは、眼鏡をかけたところで空港内にあふれている表示が相当数判別できない、ことに由来していた。国内旅行ならまだしも、海外で「空港内の案内がちゃんとは読めない」のは致命的で、かつ、私はある時期、しょっちゅう海外に行っていたので、死ぬほど空港がいやだった。この恐怖を排することができるのならば……、と夢想した。それから、私は眼鏡をかけないと外を歩けないわけだから(家のなかだって歩けなかったが)、「屋外を走る」ということができない。もちろん走れるのだけれども、眼鏡のフレームの外側はあまりにボンヤリしているために、危険なのだ。車道わきなんて走れたものではない。もしも、裸眼で屋外をランニングできたら……、と夢想した。むしろ願望した。このふたつの願いは、ささいなこととも思われるに違いない。ただ、人は自分に「できない」ことは心底「ほしい。できるようになりたい」と求めるものでもあるのだ。

手術に関しては、「意識の保たれた状態で、ある意味では全身を拘束されて、眼球にメスを入れられる」のは本気で恐かった、とだけ記す。それを片眼ずつ、2日つづけて受けるのは、恐怖のリミッターが〈レッド〉値に入ることを意味していた。あと、手術を受けるために髭を剃らねばならず、ひさびさに自分の「裸眼」ならぬ「裸顔」も見た。これは笑えた。結論だけを言えば、めちゃめちゃ良い病院に私は入院できて、先生(執刀医)も看護師さんたちも、ほんと信頼できた。ご飯はまずかった。

いま、私は裸眼でモノが見える。遠いところが見えて、ちょっと愕然とする。視界の霞み、曇りもない。ほとんど1点もない。ただ、手もとに視線を移すと、たとえば私はスマホの画面が読めない。そして、これは一生、裸眼では読めないのだ。私の肉体はすさまじい次元に入った。1日のうちに何度も何度も、感動と「不自由だなあ」との思いが、交互にやってくる。そして、眼からのインプット量の多さに、たまげる。

つまり私は、インプットにおいて、決定的に〈変わる〉時期に突入した。ここ東村山の「雉鳩荘」に移って、暮らし(という環境)は劇的に変化して、かつ、肉体もこうした劇的な変わりっぷりに突っ込んだ。断わるまでもないが、いっさいは後戻りできない。そして、私は「後退しない」ほうを選んだのだ。

庭を眺めていると、猫たちが来ることが、鳥たちが来ることが、瞬時にわかる。視認できる。それが、どれほど心奪われることか。どれほど感動的な体験であることか。

1匹の猫は、とうとう「雉鳩荘」の、私と妻が協力して組み立てた縁台にのぼった。少し休んでいった。庭でトイレもしようと試みていたが(うんちをだ)、気に入らないことがあったのか、隣家の庭に移って、そこでしていった。私は、そいつのことを「愛らしいな」と思った。私は、世界を愛らしいなと思った。

他にも書きたいことはいっぱいあるのだ。報告したいことはこの2週間のうちにたっぷり経験しているのだ。でも、いまの段落を書いたら……いまの段落を書けたから、もう私は満足だ。みなさんによいクリスマスを。そして、よい歳末を。それから、よい新年を。