考える覚悟

考える覚悟

2022.01.15 – 2022.01.28 東京・埼玉

私はいま、小説ではない連載原稿として、福島民報紙に「曲がり角にたたずんで」というのと、それから論座に「考えるノート」というのを書いている。後者は、先ごろ2回めを発表した。いっぽう前者は、すでに連載は80回めに達していて、ただし基本的には福島県内でしか読めないものだと考えているので、普段はこのサイトでも掲載の告知はしていない。「考えるノート」のほうはウェブ媒体だから、誰でもアクセスできるのだということは意識している。

何かを書いたり、考えたりする時に、アウトプットの枚数の制限はじつは大きく作用する。「曲がり角にたたずんで」は原稿用紙で3枚とちょっとなので、ある意味でエッセイの範囲にとどまる。何かを伝えようとする時に、その思考の軌跡はひとつのサンプルでしか示せないし、最後には結論のようなものを掲げることになる。そうしないと読みづらいだろう、と判断して。それに比して「考えるノート」だが、基本的には枚数は制限されていないので(といっても原稿用紙20枚とかは、たぶん「避けるべきだ」と自分で判断している)、思考の軌跡をできるかぎりビビッドに再現するようにしている。おもしろいのは、考えれば考えるほど、結論というものは出ない、との現実だ。

たとえば80文字以内で意見を言いなさいといったような課題があった場合、人は、じつは意見は言わない。「自分は○○という意見に賛成である」とか「反対である」とかしか言わない。それは「『賛成である』意見」であり「『反対である』意見」なのであって、その人固有の意見ではない。という気が、私にはずっとしている。つまり、長文で回答するために長い長い思考をする、というプロセスを踏まない限り、人はそもそも自分なりに「考える」ということはできない。

いわゆる実例を、私は、東日本大震災以降けっこう間近に見てきた。「お前はあれに反対なのか?」と訊かれて「賛成なのか?」と問いつめられる、といったような。私は、そんなことよりも考えつづけることのほうが、人には(いくばくかは)重要なのではないか、と直観的に思っていたのだけれども、直観はしょせん直観なのであって、それを自分で裏打ちできなければ無意味である。となると、私はさらに考える必要に晒されることになって、考えつづけて、いわゆる行動というのもしつづけて、それで10年はもう超えた。それは「80文字以内で回答する」ことに対して「8000字は使いたい。いいや80000字だ」と思う態度や衝動に似ていて、そうやって考えつづけていると、いかに自分には考えるための基礎教養、基礎データ、基礎体験が欠けているか、がわかって、それを補うために、延々と予想もしなかった行動を繰り返す。

ここ雉鳩荘に転居して、とうとう3カ月を超えた。私はいま、いうなれば「予想もしなかった行動」を先にいろいろと採っていて、これは何かを補っているわけなのだけれども、何が補完されているのだろう? 私は、たとえばさっき写真を撮った。私の目は、遠いところにある風景や2メートル先にある風景をきれいに捉えているから、写真もそのように撮りたいのだけれども、たとえば iPhone をかざすと、そのディスプレイ(に映っている画)はボンヤリとしか見えないので、勘でシャッターを切ることになる。だが、そもそも写真とはそういうものでなかったか? と思ったりもする。何が映るかのその細部までは把握できないままに、プリントしたものを見て、その細部のその隅に「あっ」と発見をする、といったような。そうなのだ、つまり「あっ、こんなものが、ここに!」と。写真とは昔から、そういうものではなかったのか?

私はたぶん、そのような思考(の方向、方法)を、自分の内側に設定しはじめるのだろう、と予想している。ところで小説のことを。とうとう単行本『曼陀羅華X』は校了した。装幀も着地した。何かがかなりとんでもないのだが、たぶん、ここには「考えてほしい」との種が、ガツンと蒔かれている。

いまはまだ、そこまでしか言えない。私に言えるのは、これで私という〈作家〉の2022年は始まるのだな、との実感と、そして〈物語〉内の2004年もまた同時に始まってしまうのだな、との予感や、そして、おののきだ。