春というものが

春というものが

2022.03.26 – 2022.04.08 東京・埼玉

今年に入ってからは、あまりにも予想外の仕事が舞い込むことが多く、正直に告白すれば「まいってしまうな」と感じる瞬間もたびたびだった。週に1度か2度は、珍しいほど気分が沈んだ。要するにグルーミィになった。多忙であることは幸いなことだ、と理解はしつつも(頭では)、しかしながら身体は確実に拒否をはじめて、吐き気をおぼえるような時もあった。だが、だけれども。

春というのはすばらしい。私がいちばん滅入っていたのは、この新しい拠点・雉鳩荘に、もっと徹底して手間暇をかけたいのに、かけるための時間が見出せない(わずかな隙間の時間すらも)、との1点に尽きていて、なのに。にもかかわらず。何も手を入れられていない庭が、自然と変わりだす。私は雑草というものが大好きで、庭が、ああ、あそこは緑だ、あそこには黄色い花が、と変わりはじめる。そして、続々、多種類の鳥たちが降りてきて、虫たちも湧き、飛び交いはじめて。数日前にはキノコの群生も見つけた。春のほうが、私に、そうした変化をさきにプレゼントしてくれた。

手を入れない段階で、その庭の〈成長〉を眺めると、漠然とだが「どこにどのような土壌があって、どこは痩せていて、どのあたりの地中は単なる瓦や小石が埋もれているだけで」等が、想像できる。そこに、補うように、(私たちが求めている類いの)土を加える。そこまでは進めだした。するとグルーミィさが霧散する。

私は、しばしば「私という作家はいったいなんなんだろうな」と思考する。私はこのウェブサイトのために『曼陀羅華X』解説(自著解説だ)を書き、その5本めで、やっと把握できたことがある。私はきっと〈重文学〉をやっているのだ。純文学ではない。私は、たぶん東日本大震災の発災以降の作業から、きっとシリアスな作家視されていると思う。それはそれでぜんぜんかまわないのだけれども、「シリアスだから、つまらない(だろう)」などと予想されたら、困る。あるいは「シリアスだから、どよーんと重いんだよね?」と思われるのもいやだ。私の本は重いが、それは別の理由からである。その、別のほうの理由にこそ、もしかしたら私という作家らしさはあって、だから、その意味でも、私は〈重文学〉の小説家なのだ。小説家だし劇作家だし、その他その他、なんというか文学をツールとする表現者なのだ。

いろんなことを考えて書いている。しばしば、創作ノートには絵や図も書いている。もしかしたら、創作のための青写真、というものは、どこかで庭に似ているのかもしれない。私の〈重文学〉は、そこにも雑草を必要としている。私は、うちの庭に来て、勝手にうんちをしていってしまう猫たちとかがもしも消えてしまったら、そんな庭は(私にとっては)肥沃じゃない、と、いつも感じている。

豊崎由美さんが『曼陀羅華X』の書評を書いてくださっていて、そこに「不謹慎で危険」との言葉があって、この評言に触れた時、とても、とっても、うれしかった。私は徹底して真面目に題材をとことん掘り下げるからこそ、それを不謹慎に扱う。そういうのが「小説をする」ということだ、と、信じている。慎みというかコンプラばかりで絶対に安全極まりない発言=言葉=テキストは、私は、あんまり小説という場には要らないんじゃないかと見通す。私(というか私の作品)は、つまり、シリアスにやっているから骨の髄まで危ないのだ。とも言える。そして、そういうのが〈重文学〉だ、と断じてしまって、それで批判が来るとも思えない。

カナダ人の翻訳家である友人に(とはいえ彼女には通訳しかしてもらったことがないのだけれども)、何年も前に、「古川さんは世間的にはロックだと思われているかもしれないですが、ロックじゃないですよね。古川さんは、パンクです」と言われた。スパッと言われた。うれしかった。そうなのだ、私はパンクだ。その態度(アティチュード)でしか生きてこなかったのだし、もちろん、これからだって。