意味不明のハッシュタグ

意味不明のハッシュタグ

2022.05.28 – 2022.06.10 東京・埼玉

前回の「現在地」には追記が要る。私は、5月27日の午前中にあの原稿を書いてスタッフにこのサイトにアップしてもらったのだが、その日の夜に、「この期間で重要な朗読」のみっつめを行なえたのだった。TVアニメ『平家物語』でも劇場アニメ『犬王』でも琵琶監修その他の立場で関わられている後藤幸浩さんと、公開対談(オンライン鑑賞もあり)のトークイベントをやったのだけれども、そこで生まれて初めて、私は、琵琶と自分の朗読をセッションさせた。数日前に「朗読をしませんか」とオファーが来たので、けっこう素の状態でステージに臨んだのだけれども、完全に弾けていった。もしかしたらあの場では、後藤さんと私だけで、アナザー『犬王』ワールドを生んでいたのかもしれない。その琵琶の音は私の〈身体性〉をあっさり引きだしてしまったのだった。

というわけで朗読に関してはスイッチが入ってしまった私は、たぶん、もっと多様な形で朗読に対するアプローチをしたり、決定的なアーカイブを白日のもとにさらす(という日本語は適切じゃないね。ぜんぜん)ことをすると思う。年内に。これに関しては動いてくれる人たちがあちらにこちらにといるので、ただただ皆の熱意に身をゆだねて、しかも未来へ向かって跳躍をはじめたい。なんというか、私は、いま切実にコラボレーションを必要としているのだ。「誰かと共に創る」ということは、「誰かと共に生きる」姿をその場に現出させる営為なのだし、それには/それにこそ意味がある。この時代にだ。そういえば映画の『犬王』だって、「おれたちはここにある」言ってたぜ。

『犬王』は音のよい劇場でこれまでに2回観た。もちろん昨秋以来、私はこの映画を何度も何度も観ているのだけれども、コンピュータのディスプレイ上(および内蔵スピーカー経由)で鑑賞するのとスクリーンのその大きさと音響装置経由で鑑賞するのとでは、体験として別物である。「……そうか、こうなっていたのか!」と何度も思った。もしかしたら、完成した映画を観て「……そういうことだったのか!」と感じたのは、関係者のうちのふた桁に達するのかもしれない。細部の情報量(音を含む)が、伏線=謎→解説→壮大な謎、との螺旋を産み落としている。エンド・クレジットで「原作、古川なんたら男」と出た時は、あーっと息が漏れた。800年前の源平合戦からスタートした物語を、600年前の出来事として書いた本が、現代にこうなったのだなあ、と。私はひたすら私以外の全関係者に感謝するばかりである。あとは600年後に観返して、「うわー意味わかんない」と叫んでみたいが、たぶんそこまで長生きはできない。

劇場で、目の前のシートに座ったカップルが、それぞれに文庫『平家物語 犬王の巻』を手にして上映前に読んでいたので、びっくりした。なぜだか若干緊張した。そういえば私は、電車のなかで誰かが私の本を読んでいる、という現場にまだ居合わせたことがないので、そういうのに憧れていたのだが(昔、「ずっと読んでいます」と声をかけられたことはある。すがすがしい好青年からだった)、いまの時代は電車のなかで本を読んでいる人間を発見することがけっこう稀有なことになってしまったので、今後もないのだろう。というわけで、この劇場体験はレアだった。きっと今後はないだろうな。とはいえ私は、電車のなかで私のハードカバーの単行本を誰かが読むことは文化的に大切な行為だと思っていて、たとえば私の小説『木木木木木木 おおきな森』はノンブルが振られているページ数だけで893ページあるし、それどころか現代語訳『平家物語』は905ページある。こういう本を、電車のそのひとつの車輛にひとりが読んでいたら、これはもう「読書をするというテロ行為」に近い。私は、デモをすることもいいのだけれど電車で古川日出男の〈メガノベル〉あるいは〈重文学〉を読む、というのも、けっこうアクティブな行動になって、今後の文化の土台・基礎の部分は変えうるんじゃないの、とかは想ってる。

そういうふうに「読む」ことを、世の中に求めつつ、私自身はこちらから「語る」ことも、積極的にここ最近やりはじめた。鎌倉文学館では無観客のビデオ講演の収録というのをやって、それは8月31日まで無料配信されているのだけれども、そして『平家物語』について語ったのだけれども、個人的には見応えはけっこうあるのかなと感じている。というのも、これは無編集である。私は恥ずかしい日本語の言い間違えもしていて(口にした直後に、じつは気づいていたんだけどさ……)、また数字の計算ミスもあるのだけれども(引き算ができていなかったんだけどね……)、そういうのは全部残して、その場で、自分が、何を「言葉にしたのか」をしっかり記録した。時間はちょうど1時間という塩梅で、梅雨の季節と猛暑の季節に、ここから1時間ちょうど暇だなーとか思ったら、ご覧くださいませ。

じつはこの14日間には、小説の執筆に相当没入した。『の、すべて』である。私は、『犬王』それから『平家物語』の膨大な量の作業をこなして、ぜんぜん関係のないエッセイも複数こなして、新型コロナウイルスの3度めのワクチンも受けて、その接種証明の発行の手続きなどもしてから、あとは『の、すべて』にほとんど没頭していた。いちど連載の原稿を落としてしまった私である。そうした不始末はもうしない、どころか、もう、この作品は爆発させると決めたのだ。そして、答えは出て、私はエンディングまで見通している。やれるならば、あとはいっきに、ここ雉鳩荘での2度めの冬が来る前に、もろもろ片づける。こうなったら楽しんでやる!のだ。

それと、春の盛りの頃に書いた原稿が収められた、森山大道さんのエッセイ集『犬の記憶』新装版の、見本も届いた。私がどういう原稿で関わったのかと言えば、解説を書いたのであって、森山大道という偉大すぎる写真家のそれに自分の文章を付すことができたなんて、いまも信じられない。カッコいい本です。この、森山大道さんのことを考えたり、あとは少し前に、詩人の吉増剛造さんと日本近代文学館でやった対談の「世界版」(英語字幕付き)というのも完成して見本の DVD が送られてきたのだけれども、やっぱり1930年代末の生まれのこうした巨匠、御大たちと関わらせてもらえたりすると、自分はあと30年、どうしたら疾走をつづけられるのだろうと考える。私は、劇場アニメ『犬王』のハッシュタグ「犬王見届けようぜ」がけっこう響きとして好きなのだけれども、要するにいまの個人的な課題はどのように加齢してゆくかであって、俺は日出翁(ひでおう)になれるかどうかが問われているんだなぁ、と思う。

古川日出男のそのさきにある日出翁へ。何になれるかなあ。もういっちょ頑張ろう。というわけで、 #日出翁見届けようぜ

ま、やってみます。