カミュなんです。何を言ってるかというと、人は「カリギュラ」という語を耳にするとポルノ映画まがいの連想をしたりもするんですが、そうじゃないんです。アルベール・カミュの戯曲のほうの『カリギュラ』。それを三鷹 SCOOL にて上演します。上演? この語が連想させるものに、きっと、なるんだろうなあ。明日(3月24日)一夜限りです。以上、宣伝終了。ところで僕は、「福島民報」紙上に毎月一回のエッセイ?思索の記録?を連載しているんですが、それが、今週火曜の掲載をもって丸3年になりました。なんというか、この「長距離」感には僕自身驚きます。福島県外の方はちょっと入手に手間取るであろう地方紙での発表なので、最新情報としてのアナウンスはしていないのですが、だからこそ、ここで少しだけ、今回記した内容のその核のところを、違う言葉をもって書いてみます。僕の最新刊『ミライミライ』は、「新潮」誌上での連載開始を前にして、いつ書き出されたかというと、2016年3月11日でした。この日付だからこそ、起筆日がいつであったかを、僕は忘れていません。そして、もちろん、「この日に書き出す」ことをあえて選びました。なぜか。東日本大震災から5年め、その日にやるべきことは、もちろん祈ることでもいいし《言葉》を口にして他者と共有することであってもいいのですが、もしかしたら、《いちばん難しいこと》であるべきではないのか。そして、小説家の自分にとっての《 いちばん難しいこと》は、新しい小説を、新しい物語の世界を、産み出すことです。僕は、『ミライミライ』の冒頭の章の、いまも本に収まっているあの最初の1ページ、2ページ分を、まさにそのままの形で、書きました。書き出していった。産んでいった。翌日、前歯が1本取れてしまい、自分がいかに歯を食いしばっていたかを知りました。ただ、そういうことができてよかった。だからいまも、つまり今年の3月11日もということですが、僕は書いていました。失われてしまったものに向き合う自分なりの最大の誠実な態度は、書いて、産み出すこと、新しいものをここに「現わす」ことだなと、そんなふうに今年は/今年も感じています。ちなみに書いていたのは『木木木木木木(おおきな森)』です。先週のお便りにしたためた、「群像」誌の連載原稿です。で、それは脱稿したわけですが、僕は来月の上旬がまるまる海外渡航で、そのこともあって、次号分の原稿を今月中にアップしてしまうことになりました。ですから、じつは、現在も『木木木木木木』を書いています。なにかこう、いろんな文学者が、憑いています。が、明日は、そこから離れて、いっきにローマ皇帝を憑かせます。その人は誰か? もちろんカリギュラなのです。いけ、憑依。超常現象。
20180323