脳内をね。しょっちゅう「見たい」と乞われます。その奇天烈なアイディアはどこから生まれたのか? 脳味噌をちょこっと見せてほしい、だの、少し開いてほしい、だの、要するに「君の頭蓋を叩き割って調べたいなあ……」と求められるわけです。いやですよ、そんなの。でも、もしかしたら、先週末には脳内を見せることができたのかもしれない。三鷹 SCOOL でやっている「フルカワヒデオ、戯曲を読む!」シリーズは、まあ、ぜんぜん単なる朗読ではないものになっているわけですが(最初からそうでした)、今回の『カリギュラ』は突き抜けきった。映像という要素も足して、自分は何がしたかったのか? 直前までメンバーに語っていたのは、自分はこれを狭いジャンルとしての《演劇》にするつもりはないこと、しかし《美術》の文脈で作りすぎる気もないこと、の2点でした。結果、現われたのは、混沌とした自分の脳だったと思います。いえ、それぞれの要素はシャープです。だからボヤけることはないはずなのに、ふたつのこと、みっつのこと、よっつのこと、それ以上が同時に進行して、しかし統合感もある。こういったことは、たとえば小説執筆中ならば、1)作品の全体像をつかみ、発想する。2)いま着手しているシーンに集中して、細部を視覚的・音声的にも描出可能なレベルに至る、3)だが、結局のところ、いま書いている1行に集中する、という、三つのフェーズの分離・統合に表われ(たりもし)ます。その意味で、僕は『カリギュラ』を読む(または上演する)会場の SCOOL にて、オーディエンスを僕の脳内に案内できたのかも、と想うわけです。どうしてそんなことがしたかったのか? 先に説明しておけば、僕は《演劇》を否定したり《美術》を拒んだりしているわけではありません。しかし、たとえば、人が映画館に足を運ぶ際に「だいたいのストーリーは予告編その他で鑑賞前にすでに把握している」とか、「聴いた(聴き馴染んだ)ことのある音楽」のデータやCDだけを買うとか、「エンディング付近まで予想のつきそうな、みんなも読んでる小説」ばかりを手にするとか、そういう時代の風潮に(たぶん、そういう風潮は10年以上前から生まれている気がします)、なんて言ったらいいんだろう、違和感? そういうのを、やはり、覚えています。未知でいいじゃないか。ジャンルに収まらない表現が、あってもいいじゃないか。いいえ、ジャンルの内部の話でもいいんだ。読んだことのない本が、あったら、最高じゃないか。違うのか? 僕は、違わない、と僕以外にも唱える人が、大勢いることを信じています。未知、未知なる《演劇》や未知なる《美術》や、あらゆる未知なる文学。信じているから、作っています。頑張って作り、届けています。さて、今日はちょっと長めに書きます。週明けからイタリアなので、今日という日に思っていることを、ふたつほど。まずは、「フルカワヒデオ、戯曲を読む!」シリーズの発端についてなんですが、だいたい丸1年前に僕はそれまで3カ月間暮らしていたアメリカから戻りました。自宅に帰り着いて、重いスーツケースを階上に運びあげようとして、たちまちギックリ腰に……。なんと、帰宅の3分後でした。困ったのは、10日ほど後に朗読イベントが控えていたことです。これでは、マイクの前に立って、ひとりで読むという行為も不可能ではないか。と気づいて、サポートをワワフラミンゴの北村恵さんにお願いすることにしました。僕は、ひたすら、机の前に座って、自著を読む。その朗読用の本を、北村さんがつぎつぎ、会場内に運び込む。名づけて「わんこ朗読」。わんこ蕎麦のわんこです。犬のワンコではないです。で、全体をひとつの作品に仕上げる。というのを、どこでやったのかというと、オープン2日めの三鷹 SCOOL なのでした。というか、これ全体が SCOOL のオープニング・イベント(のフェス)なのでした。これを観た佐々木敦さんが、プロデューサーとして「フルカワヒデオ、戯曲を読む!」シリーズのアイディアの原型?を発案されたのです。ギックリ腰になって、よかったですね。で、あともうひとつ、今日書いておきたいことを。いつも3月末になると、ああ命日だな、と思います。我が家にはふたつ命日があって、16歳まで生きた猫と、18歳まで生きた猫の、それぞれのそれです。前者は、僕が白猫たちのいっぱい登場する『LOVE』のシーンを書いている時に、天に召されました。後者は、野生児の猫の2都物語である小説『MUSIC』を脱稿したほぼ1週間後に天に召されました。どちらが死んだ時も、本当に泣いた。何時間も何日も号泣していた。そして、「ああ、これから自分は変わるんだろうな。自分たち(僕と妻)の暮らしは」と確信した。変わろう、とも思った。覚悟を決めていて、すると、1年後に東日本大震災が起きる事態となって、その際には、僕は2匹のために流した涙を遥かにうわまわるほど泣きつづけた。そうしたことを、3月末になると、いつも思いだします。そして、いちばん鮮烈に自覚するのは、自分は変わろうとしたんだ、変わることに備えていたんだ、という事実です。
20180329