小説が死なない、ということ。その不思議な実感は、昨年末から自分を襲っています。連載中の『木木木木木木(おおきな森)』は、おおよそ3パートから構成されていて、じつは、現代を生きる小説家が主人公のパートというのが、ボルヘスや坂口安吾らのパートとは別に存在しています。そこで何かが起きている。主人公が、かつて東日本大震災があったために、内容を《変更》しなければならなかった過去作を、東日本大震災が「なかった」と仮定して、新たに書いている。その小説のタイトルは『犬母』です。ちなみに僕には『ドッグマザー』と題する小説があります。これには前日譚である作品が先行していて、その題名は『ゴッドスター』です。また、東京小説の系譜として『LOVE』『MUSIC』があります。じつは、現代の・日本の・そのまま、を神話的に掬いあげるシリーズとして、この2種の系列を合流させる5番めの作品を、東日本大震災以前には構想していました。しかし、現実に災害が発生したことで、現代の・日本の・そのまま、の軌道は変わって、『ドッグマザー』はまるで違う線路を走り出しました。よって「5番めの作品」は生まれませんでした。ひとには明かしていなかったのですが、その「5番めの作品」には、タイトルもありました。アルファベットの大文字だけで成っているタイトルです。つまり『LOVE』や『MUSIC』同様のものです。この「お便り」には心を込めているので、素直に書いてしまいますが、それは『WAR』となるはずでした。不思議に思うのは、自分は、もしかしたら『木木木木木木』において、オルタナティブな『WAR』を発進させつつあるのかもしれない、との事態です。書かれなかった小説を、書かれている小説の内部で、書く。これはどういうことなのか。東日本大震災は、他にも僕の作品に大きな打撃を与えていて、ある雑誌に1200枚ほど書いていた連載小説を、僕は「未完」にさせることを決断せざるをえませんでした。が、ここでもやはり不思議なのですが、それは(というか、その小説のもっとも大きな主題は)戯曲『冬眠する熊に添い寝してごらん』として、数年後に甦りました。舞台も主人公もまるっきり異なるのですが、しかし死ななかった。僕が「そうしよう」と決意しても、それでも。こうした折々、自分は「小説を書いている」のではなくて、小説に「それ(=小説)を書かされている」のだと感じます。そして、それでよいのだ、と思っています。ところで戯曲について触れたのですから、戯曲です。イベント@SCOOL「フルカワヒデオ、戯曲を読む!」の第4弾は、起動しました。その上演後に、小説家になって以降に執筆する本格的な戯曲の第2弾(『冬眠する〜』に続くもの)を起動させ、屹立させるつもりです。が、その前に、やはりまだまだ……まだまだまだ小説執筆です。そのための調査、取材も敢行します。いま、敢行と書いたらいったん《刊行》と誤変換されたので、刊行について記しますと、今月中に今年(2018年)のうちに出す2冊の本の打ち合わせも進めます。あれ? いま2冊と書いたか? え? ま、そのうち。何が?
20180517