20回めのお便りです。このお便りもまた、書きつづけているのだなと感を深くします。最初に感謝したいのですが、先週末の「フルカワヒデオ、戯曲を読む!」第4回『三島由紀夫「サド侯爵夫人を読む!」』に、大勢の人に来ていただいて、ありがとうございました。客席も追加しなければならない状態で、そして、次に謝罪したいのですが、空調の関係やそれから満席であったことも影響して、具合の悪くなってしまった方もいらっしゃったようです。本当に申し訳ないです。ですが、そうした状況にもかかわらず、あれほど真摯な《目》でもって、あるいは《耳》でもって、2時間30分を超えるステージにつきあってくれるオーディエンスがいたことは、感動的でした。自分が、冒頭の第1幕と第2幕をフルにひとりで読み切り、その部分だけで1時間50分を要したことも、いや、「要したことも」というか要するような局面を乗り切れたのも、あれほど集中した観客の《目》と《耳》とが正面にあったからです。演出的には、2面のスクリーンを用い、そして朗読・絵画・調理・映像・演技を共存=同時進行させて、かつ SCOOL の3種の空間プラスα(=外の世界)を分割されたスクリーン上に「現在地」として存在させる、という試みを、きちんと成し遂げられたことは、感激以上に安堵を僕にもたらしました。このことを実現に至らせてくれたメンバー、北村恵と近藤恵介と河合宏樹と土屋光に、ここで名を挙げて感謝します。あんたたち偉いよ。佐々木敦さんにはアフタートークで「どうしてそこまでやるのか? 君は?」と問われたのですが、結局、自分はどうしてもそこまでしかやり続けられないのだ、と、まさに佐々木さんとの対話/インタビュー集の作業を終わらせるプロセスに入って、痛感しました。このインタビュー集は、400ページほどになります。この言葉の量は(佐々木さんの言葉の量も半端ではない)、きちんと「何か」を撃ち抜かんとはしている、そのことも感じました。僕の略年譜も新たに語り下ろし調の大量のコメントを添えて収録され、それから十数名の方による拙著の全作レビューも収められます。レビューは、胸打たれました。「かつて書いてきた作品が、いま読まれて、いま語られて、いま素晴らしい『文字』に換えられ、刻まれた」と。それは、ある種、自分の生の肯定でした。書いてくださった方々、本当に、ただただありがとう。レビューの執筆者紹介のところに小さなアンケートがあって、そこの部分も、ぐっと……ぐっと来ました。1作1作が、いま、「生きていいよ」と言われたような。このインタビュー集の作業がひとまず手を離れて、また、「戯曲を読む!」も終えて、思うことはただただ、以下の2種です。僕の生き方はストイックである。僕の生き方はラディカルである。人によっては、これはひたすら『悪いこと』でしょう。善悪を問えば。しかし、結局、僕はこのようにしか生きられない。生きてこられなかったし、これからも生きられない(はずだ)。だからこそ、あらゆる局面あらゆる局面で、そばにいてくれる人たち、それは読者でもあるしオーディエンスでもあるけれど、みなさん全員にありがとうと告げます。連載小説『木木木木木木 おおきな森』も書き進めています。戯曲はついに昨日起筆しました。自分はいつでも試されています。しかし、それはつまり、まだ僕を試してくれる状況ではあるのだ、この世は、ということです。
20180705