見本きたれり。何の見本でしょう? 佐々木敦さんと僕の共著、厖大な量の「対話」集、すなわち……『「小説家」の二〇年 「小説」の一〇〇〇年/ササキアツシによるフルカワヒデオ』の見本、です。僕はいつも、自分がこの先も作家として続けていけるか否かの判断の軸を、新作の見本を手にした瞬間・目に入れた時に、感動・興奮できるか、に置いているのですが、……できました! うれしい。マジうれしい。あまりにうれしいので久々にうれPなどと書いてみたいところです(←書いてしまった)。装幀は nu こと戸塚泰雄さんが手がけてくださって、この「戸塚さんがデザイナー」に関しては、担当編集者に話した時に「自分も考えていました」と言われ、佐々木さんも「それは万全でしょう」とおっしゃられ、何か全員一致でさらりと決まったのですが、ラフで見ていた装幀よりも、やはり、俄然、手に取った実物は違う。さて、あの装幀の、あの《画》は、なんでしょう? いったい何でしょう、とクイズを出しておいて、内容に移ると、僕は3段階で泣きました。佐々木さんの序文、琴線をガーンとかき鳴らし。そして、以前にもこのお便りで綴りましたが、20名(!)もの人がレビューしてくださった巻末の作品紹介に、感涙。そして、このふたつに最初と最後を挟まれて、まさに半ばの半ば、佐々木さんとのトークの記録で「完全にぶっ壊れ、ぶっ潰れている」時期の自分の精神の生々しいドキュメントに触れて、嗚咽……。どういう3段階なのか。その、「ぶっ潰れている」のは具体的には2010年なのですが、どうしてそのような季節に至ったのか、は、もしかしたら先週公開の「再録!『絶賛過労中』」パート2、で助走期のことがわかるかもしれません。あれは、もう、躁鬱の《躁》モードがひたすら続いているような前半部(2007年9月〜)から始まるので、その《躁》がすでに危険なもの・破滅的なものを孕んでいる。しかし、今回の「再録!『絶賛過労中』」の肝は、途中、いっきに全部を「古川日出男が捨てる」ところでした。正直、衝撃を受けました。俺はこんなふうに決断し、こんなふうに生きてきたのか……。2018年の現在からふり返ると、求めていることはなんであるか、はその当時も自分で認識できていたわけです。しかし、それは「捨てないと手に入らない」。だから、捨てる。その決意。しかし……しかし問題は、それで古川日出男が万全に幸福になったわけではない、2010年にはあれほどのダウナー期を迎えてしまうのだ、との事実です。ひと言でいえば、人は悟らない。あるいは、簡単に「『悟った』ように見える」ことは、罠である。そのことを、自らを被験者に試せた過去は、もしかしたらプラスだったのかもしれない。その果てに、たとえば僕は佐々木敦のような戦友を得られた、と感じます。そして『「小説家」の二〇年……』の巻末レビューに目を落としながら、戦友たちが生まれている、と感じることもできました。闘わなければならない、しかし、何と? 今日(2018年7月26日)に起きた現代史的な出来事は、オウム真理教の死刑囚6人に一斉執行、でした。今月6日の、教祖含めての7名同時執行の時にも感じたことですが、そんなに「殺したい」のか? そして、誰が、そんなに「殺したい」のか? 一斉執行というショーにしたいのか? 謝罪をし続けている死刑囚もいました。悟りは、迷妄でしかなかった、と、とうに認めた人間も。それから精神をすでに、ほぼ明らかに病んでいた(病み切っていた)人間も。僕が言いたいのは、人は変わる、ということです。被害者がある時に加害者になり、加害者がまた被害者になるなぞ、当然ある、起こりうる、ということです。これ以上の説明は、僕は、小説を書き、そこで《寓話》として行なうしかない。それが僕の戦闘なのです。そうなんだ、そこが戦場なんだ。
20180726