膨大な量のコメンタリーを付けています。三田村真さん a.k.a. DJ産土との共同作業です。何にコメンタリーを付けてるのかと言えば、本にです。晩秋に出る僕の作品集にです。この本には、そろそろコードネームが必要だと思うので、『ポータブル・フルカワ(the Portable Furukawa)』にしたいと思います。略称『ポータブル』。というか、the Portable Furukawa の部分は正式な英題として書籍に入るのですが、日本語タイトルのほうが当然ながらメインとなるので。すなわちコードネーム『ポータブル・フルカワ』。そんな「持ち運びのできる」フルカワは、本文だけで500ページを超えていて、ゲラを見るのが大変です。来週初めにこのゲラの確認を終えて、編集部に戻します。そして、『ポータブル』収録作品を(ひとつの流れに沿って、DJ産土のミックスに従って)読みながら、「ここまで妥協しないでいいのか……」との思いに、頭を抱えもします。この作品を省いたら、もっと読みやすいかもしれない。この作品からの流れを排除して、ある「型に嵌まった」短篇集のようなものをめざしたら、ビギナーをいっぱい呼び込めるかもしれない。しかし、そんなふうにはしなかった。編纂を担当したDJ産土がしなかった。僕に、そうした妥協を許さなかった。その意図は何か? または、作品執筆の背景はなんだったか? そうしたことを、三田村さんと僕が語りつづけています。つまり、それこそ、コメンタリーという意味です。本当に手間暇かけて、この『ポータブル』を、古川日出男の入門書であると同時に、古川日出男の核心に1冊で迫れるようにと、心がけています。ところで、こんなふうにお盆のこの時期に『ポータブル』に没頭できているのは、戯曲を3日早く仕上げて、連載小説『木木木木木木』の今月分を2日早く入稿できたからで、なんというか凄絶な時間とのレースを展開していますが、いっぽうで数日前に「俺、太ったな」と気づいて、それはまあ90日前とかに人前に出た時にみなさんから「大丈夫ですか? 痩せすぎじゃないですか!?」「闘病中ですか……?」などと問われるありさまだったから、肥えたほうがいいのですが、でもなんか、肥える勢いが加速しているのでは、と思って、2日間プチ断食したら2、3キロ痩せてしまったので、プチ断食はやめました。そんなわけで(←説明になってない)夏季休暇とは無縁の日々を爆走しています。しかし、やっぱり僕は思うのです。20年間も書きつづけられて、よかった、と。周囲に、いろんな理由で、音楽をやめた奴、美術から離れた奴、芝居から足を洗った友人、映画をもう撮らずにいる知人、そうした人間が多数いる。僕はもう50代ですから、死んでしまった者たちもいます。いっぽうで、「続ける」というのは、見方を変えれば「読まれない作品を、さらに書きつづける」ことでもあります。読まれずに終わってしまった、よい作品、切れ味ある作品、そうしたものを、さらに《埋もれさせる》結果にしかならないのかもしれない。だから「続ける」ことこそが、表現者としての自分の過去を駄目にすることなのかもしれない。けれども、当然ながら僕には「死ぬ」という選択肢はありません。運命がそれを強いない限り、僕は「生きる」し、すなわち「続ける」。そうした姿勢を保ちながら、どうやって過去の作品たちを残すか? あと20年続けたら倍増してしまうかもしれない作品たちを? 足掻いて、足掻いて、やってみます。今週も、読んでくれてありがとう。
20180817