背伸びをするために読書があった。子供時代をふり返ると、いいえ、20代まででもいいのですが、つねに《本を読む》とはそういう行為だった気がします。読んだことのない文章、物語、世界観、それを求めていた。そうしたものは「背伸び」しなければ手に入らなかった。だから本を(たとえば小説を)手にした。そして、僕は思うのですが、そうした人は多いのではないか? あなたはどうですか? そこに「書かれている内容」やら「書かれている文章」やらが、とうに事前に予想できるから読んできた? 手に入れた? そんなことより、「これを読んだから、昨日までの自分が持っている『何か』とは、違うものを得られるかも。違うところに行けるかも。違う自分になれるかも」といったような、そうした希望/欲求をもって、本に触れたりしませんでしたか? いまの時代(の日本)にあって、僕がいちばん不安を覚えるのは、本の「面倒臭さ」が全面否定されているような雰囲気、風潮、です。読むのに時間がかかる? 高い? 単行本は(特に《メガノベル》系だと)重い? しかし、本ってそもそも、そうした「面倒臭さ」が武器だったんじゃないか。現実のこの世界に生きているのに、その自覚を捨てて、本の世界に何時間も、何日も入ってしまうような「異様さ」や、お金をその本に投じてしまう「えいやっ!」という気持ちや(あるいは気持ちよさや……そうなのです。「買っちまったぜ!」ってアレ)、重量を感じられる《モノ》を携えている感触や。それが大切だったんじゃ? もしかしたら、そういう「面倒臭さ」を削いで削いで削ぎ切ってしまったら本にはもはや魅力は……ないのでは? いえ、ここで「魅力」なんて言葉を使うから誤解されるんだ。僕は本の《ヤバさ》を言いたいのです。何時間か何日間か、あるいは何十日間で、何百円か何千円かを投じて、何百グラムか何キロか(……キロに達する本はそんなにないか……)を携行するだけで、「背伸び」ができる。もしかしたら成長が達成できる。成長なんて言葉が教育上ヨロシ過ぎるならば、武装が達成できる。それが本であって、だから危険で、そもそも危険思想のミナモト視されて焚書の憂き目にあったこと多々。あらゆる地域の、あらゆる歴史が、それを証しています。そんな本を「安全」なものにすることで、本それ自体を消滅させようとしているのが、いまなんじゃないのか? もしかしたら「安全」になれば売れると勘違いして、自分たちで焚書(や禁書やその他その他)に励み出しているのが、現代なんじゃ? 僕はそのことの危険を想い、どうにか《ヤバい》本たちを生き残らせようと、そんなふうに意識しています。さて、こんなのは孤軍奮闘なのかと言えば、今月はこの20周年サイトになんと柴崎友香さんがご寄稿くださって、その文章がすばらしすぎて、まるで「柴崎友香の小説のなか」にいるような読後感+読中感で、しかも完璧に古川日出男が批評されていて、そんな文章を書ける人が、こんな人間(のサイト)のために何か(にしてすばらしいもの)を書いてくれたことが、孤軍奮闘ではない、と告げているって感じます。それからまた、僕が随時その作業状況をレポートしている作品集『ポータブル・フルカワ』ですが、こちらにはなんと柴田元幸さんが凄い解説を寄せてくださり、僕はもう目にしたのですけれども、これは圧巻の古川論でもあって。そもそも『ポータブル』というこの本は現時点では謎めき過ぎている気がしますが、謎はもちろん、刊行時(とかその直前)には完璧に解けますし、かつ、本としての『ポータブル』には柴田元幸の解説が付いている。そして僕は、思うのです、柴崎さんにしても柴田さんにしても(というかお二人ともシバではじまるお名前ですが)、いいからフルカワやっちゃえよと言ってくださっている。シバシバはそれを言わんとして、書いてくださっている、と。「やっちゃう」とは、何か? 本を、このまま、《ヤバい》ものにし続ける、ということです。あるいは、本の《ヤバさ》などどうでもいいと言う(言うであろう)今後の世界に逆らうこと、です。僕は、ありとあらゆる人たちに「背伸び」のチャンスを残したい。希望を残したい。だから。今週は結局、『ポータブル』を含めて原稿用紙950枚分ぐらいのゲラを見ました。複数の猛烈に濃いミーティングを行ない、多数の企画を進めました。ふたたび執筆に没頭し……ましたと言いたいけれど、今日は、没頭しようとして足掻いています。「足掻く」という動詞は、このお便りに何度も何度も刻んでいる気がする。そして、それが僕の本質なのかもしれない。どこかのゴールのようなところに到達して、高みの見物をする、といったようなのとは正反対の、この地面で、足をジタバタとさせ続けて、這うように前進して、そして。この週末には例の戯曲のゲラも見ます。最終チェックです。もっとも危険な《モノ》を、だから《ヤバい》新作を、さあ、すぐに出すし、連続して、どんどん世界にドロップします。まだやれる。
20180823