とても短い長いお便り第3回。出ました。何が? と問われてしまいそうですが、今度は新刊ではありません。幻冬舎の志儀保博さんが、このサイトのためにご寄稿くださいました。志儀さんは、僕が作家として本格的に活動しはじめる《現場》をある意味で唯一知る編集者で、その原稿は、本サイトの「最初の編集者の告白」コーナーを形作ることになりました。さまざまな方々に、本当にものすごいテキストを頂戴しているこのサイトなのですけれども、志儀さんの原稿は、ベニー松山さんとやった特別対談(「小説家誕生前夜」)と同等の《衝撃力》を持っているかと思います。……衝撃力なのか、破壊力なのか。……こんなの出していいのか。というか、出していいんです。だって、書いてくれた、彼は、これを。感激しました。ぜひ読んでください。デビュー前は「特別対談」コーナーにある。デビュー直後の(直前も含めた)数年間が「最初の編集者の告白」コーナーにある。古川日出男のむかしとミライ、とのサイト名はぜんぜん伊達じゃない。そして、ミライ、そう未来ですね。『ミライミライ』という作品が刊行されなければ生まれることもなかった最新刊『とても短い長い歳月』は、ぶじに店頭に並んでいます。携行、されてますか? ポータブルになっていますか? なっているとよいな、と僕は念じます。すでにこの『短い長い』の解説動画「とても短い長い宣言」は公開済みですが、その続篇? というか何篇? の第2弾の動画「とても短い7分間の余話(ホンネ)」も、このお便りのアップと同時に公開されます。これで、どんどんどんどんと、『短い長い』のことや、それよりも古川日出男そのもののことが、わかるようになると思います。もしも「わからない」ようになったら、それもまた古川日出男であるということです。つまり、あなたは(以前よりクリアに、古川日出男が)わかるようになります。ふたつの動画の撮影・編集をしてくれた河合宏樹くんは、12月1日の明治大学中野キャンパスでの特別シンポジウム「古川日出男、最初の20年」でも過去を総括する(ような)映像を発表すると予想します。シンポジウムはとにかく、登壇者が凄いラインナップなので、古川のむかしとミライのその未来に移行する「総括と跳躍の場」として、よければ立ち会ってください。入場無料です。明治大学に在籍していない人もモグリにはなりません。だいたい俺も明大の学生じゃないしな。そして、このシンポジウム「古川日出男、最初の20年」は土曜日の午後なのですが、その2日前、11月29日にはブックファースト新宿店で、夜、朗読会の「とても短い長い朗読」を行ないます。僕の心中では、これらは(現実的には)3日の間に行なわれる2種類のイベントなんだけれど、完璧に連なっていて、いわば2デイズです。『短い長い』を朗読して、20年間にダイブして、その20年間を、あらゆる登壇される方々が総括されるシンポジウムで、もういちど攪拌し直す。何かが生まれるはずだ、と信じています。《むかし》から《ミライ》へ。本当に本当の、未来へ。こういうことを考える時、じつは、自分のキャリアなんてどうでもいいや、と思います。小説に未来を作りたい。文学をサバイブさせたい。それだけを切に願う。
しかし、それと逆転するように、とても短い長いポエジー。
ほんの数日前に、長崎にいました。眼鏡橋という有名な観光スポットがあるのですが、たまたまこの橋の界隈に出て(いつものように、さ迷うように散策していたのです)、ああ実際に混んでるなあと思って、もう少し上流に行こう、と思って、川面を眺めつづけていて、そうしたら、1羽の鷺がいて、なにか格好いい。名前をキャサリンと付けてみる。するとキャサリンは、じわり、じわりと歩いている。水面を見据えながら、歩いている。斜めに歩いている。どうして斜めなんだ、キャサリン? 水中に目を凝らすと、川床から盛りあがった凸状のコンクリートの、なんだろう、氾濫防止の加工を兼ねた(?)通路みたいなのがある。細い細い通路、その凸の上をキャサリンは進んでいるのだった。凸はどうしてだか流れに斜めになるように設けられていて(そこには意味があるんだと思う)、キャサリンはだから、そのために「斜め歩行」をする。し続ける。でもキャサリン、そのまま行ったら川の岸だよ、この川の護岸だよ、突き当たっちゃうよ? そこまで来たら、どうするんだ? デッドエンドになるよ? 僕が心配していたら、フッ、とキャサリンは止まるのだった。それから、クルッ、とターンするのだった。ずいぶん進んだ通路の上を、逆方向に、逆方向に、つまり戻るのだった。それも、じわり、じわりと……。
「進めばいい」ってもんじゃないんだな……と、愕然と僕は悟る。
時間が巻き戻された気がする。
キャサリン凄し。
とても短い長い質問。だいたい30代半ばだった頃に、NHKで、35歳の男女を集めた討論会のようなものをやっていた。番組内で「あなたは20歳の頃に戻りたいですか?」という質問が出たら、全員「いやだ」と答えていた。いまのほうが、大人だし、頭もまともになったし、この年齢でいい、と。なるほど、とその時の僕は思って、それから現在、52歳になっても、まあ奇蹟が起こって若返るんだったら35歳あたりがいいな、だって学び足りなかった事柄を学び直したりするのに、脳味噌もばりばり吸収力ある時期だし、なにしろ体力もそんなに落ちてないしな、とか考える。しかし、どうなんだろう? いまの30代半ばの人もそうですか? そう答えますか? それから、あと、いま現在10代あたりの人って、正直、何歳ぐらいの「大人」になりたいもんですか? その《理想》の年齢に達したら、俺は幸せ・あたしは幸福そう、って年は、何歳?
3歳だったりしてね。ちょっとキツいな。
とても短い長い1日。これは11月12日です。前日の、詩人・暁方ミセイさんとのイベント(宮沢賢治を語る内容)がとても手応えがあって、その余韻がありながら、もう小説の執筆に復帰しようと心身の調整に入っていて、その小説は連載中の『木木木木木木 おおきな森』で、目下、この小説はとんでもない次元に入りつつあって、いったいどうなってしまうんだろうと恐れおののいている。それは、内容が、というよりも、俺がきちんと《作者》として喰らいつきつづけることが可能なのか、ということ。たぶん可能だ、と思いながら、いまは睡眠時間を削ってでも準備をしなければならないと覚悟している。実際、そうしている。すると、あるラジオ局から、予想もしていなかったプログラムの放送がはじまって、それは構想に直結していて、どうしてこんなことが起きるんだ? と愕然としながら、半分それを聞き、半分資料を読み、それから、このラジオは iPhone のアプリを使えば「いつでも聴取」できるかもしれないと突き止め、そうすることに決めて、夜、また睡眠時間を削って、聴いて、小説のイメージは飛翔する。そうだ、ここまで来た。そこまで来た。あとは、書けばいい。書け。
20181115