とても短い長いお便り第5回。まず記したいのはブックファースト新宿店での朗読会「とても短い長い朗読」の報告で、けれども考えてみると、この朗読会(のあった日)こそが、とても短い長い1日だった。だから今回はとても短い長い1日=2018年11月29日を記述することから始めます。この日、朝、僕は何をしていたのか? 入稿作業をしていました。新連載の初回の、です。いったい、新連載とは何か? 僕は現在発売中の文芸誌「MONKEY」にて、2013年から続けてきた「宮澤賢治リミックス」の連載を完結させました。それは「古川日出男 REMIX 2018」なる小特集に孕まれています。柴田元幸さん責任編集のこの雑誌では、前身の「モンキービジネス」誌でも、また英語版の ‘monkey business’ 誌でも、じつは僕は皆勤賞で原稿を載せつづけているのですが、それでは、「宮澤賢治リミックス」を終わらせてしまって、僕は皆勤賞から下りるのか? じつは下りないのです。来年の最初の号から、ただちに新連載を始めるのです。その1回めを、書き上げて、入稿したわけです。自分としても衝撃的な内容になりました。俺はこれをやってしまうのか……。まあ、しかし、自分が衝撃を受けないようでは、感性鈍った人間に堕すわけですから、間違った道は歩んではいないのではないか、と思います。詳報は来年。そしてそこから、脳を完全に『とても短い長い歳月』に切り替えます。そう、『ポータブル・フルカワ』に。この本は誰が編纂したのでしょう? DJ産土、すなわち三田村真さんです。三田村真さんとは、どういう人物でしょう? その生い立ちなどを僕は『ミライミライ』に詳述しています。だから、結論として、今日の朗読会は「『ポータブル・フルカワ』から作品を選んで読むのだが、この『ポータブル・フルカワ』は三田村真にミックスされているので、その三田村真の《人間》が描かれた『ミライミライ』を読みつつ、『ポータブル・フルカワ』からの幾篇かを読む」、となりました。作家に、この本(DJがミックスした作品集)がミックスできるのか? 朗読用に? との問いの答えは、こうしたものになりました。そのために、11月29日は、昼まで、脳の切り替え作業をする。午後は、60分の朗読会用に、仮決めした構成を「実際に読んで」確認する。自宅で行なうリハーサルなので、僕は《宅リハ》と読んでいます。で、《宅リハ》してみたら50分程度? これにトークを交えれば、まあばっちり? などと考えながら、雑務を処理して、それから自宅を出る。出て、新宿に向かう。会場のブックファーストの前を通り過ぎる。そこを通り過ぎて、通り過ぎて、ただ直進して、それから(いちど右折して)歩道橋を渡る、すると僕はどこにいるか? 新宿中央公園です。そこで、ベンチに座り、カセットテープレコーダーを出し、録音を開始する。新宿の、夕方の、そこにあふれる音を録る。スケーター(スケートボーダー)たちが練習をしている。どこかヒップホップだ。お笑いの練習をしているコンビもいる。いろんな音がする。ヘリも飛ぶ。そうした音を、録る。それから、軽い夕食。それから、会場入り。空間のチェック。そして、19:00、開演。挨拶して、まず壁にいろいろと紙を貼る。セロテープを、ちぎって、それで貼る。そうしたら会場中に緊迫感が満ちた。そして三田村真を、DJの産土を読む。それから、『ポータブル・フルカワ』からも読む。カセットテープを流す。この会場は、地下の、書店に属するクローズドな空間だけれども、そこに、さっきまで「外にあった」新宿を放り込む。持ち込む。それらの音と共演する。また産土を読む。また『ポータブル・フルカワ』に戻る。数日前に近所を散策した時の音を、これは iPhone から流す。カセットテープレコーダーは再生モードにしたままで。新宿でもない場所の、今日でもない《過去》という時間が持ち込まれる。それとも共演する。ここがあり、ここじゃないところがあり、いまがあり、いまじゃない時間がある。『ポータブル・フルカワ』からは、「低い世界」と「美食」を、それぞれ丸ごと読んだ。「美食」は受けた。みんな笑った。そして、最後、この話は沁みた。朗読を終えて、トークも終えてみると、なぜだか70分も経っていた。たっぷりと、ゆっくりと、読み、語った。語れた。続いてサイン会でも、人と話せてよかった。全部を終えて、会場を出て、それから『ポータブル・フルカワ』の担当編集者のWさん・装幀の水戸部功さんと打ち上げ。ビールを2杯のみ、ワインをボトル2本空けて、気がついたら、もう11月30日になっている。とても短い長い1日は終わっている。
とても短い長いポエジー。
「美食」を読んで感動したのは、主人公の5歳児が、今日を記憶している、のと同時に、今日とつながっている昨日を記憶しているし、今日とつながっているのだから明日のことも憶えている、と断じていることだ。僕は、そんなふうに生きたい。あるいは、僕は、そんなふうに生きていた。
僕にもあなたにも、お互いに「確実に行なえる予言」がある。僕は、あなたに対して、あなたは死ぬ運命にあります、と言える。あなたは、僕に対して、あなたも死ぬ運命にありますよ、と告げられる。この予言は(これだけは)絶対に当たる。
それで?
そんなものは、明日を記憶していることの当然さと同様に、当然だ。
だから、ただ必死に生きればよい。たしかに僕たちは死ぬ。しかし、いま生きているというのは、僕たちは平然と「死の裏をかき続けている」ってことなんだ。
とても短い長い質問。
今回は単純です。あなたが締め切り当日の小説家・古川日出男だったとします。突然、いままで考えてきたものの4倍も凄いアイディアが浮かんでしまいました。ですが、それを形にするためには、ここまで書いてきた原稿を廃棄して、冒頭から書き直し、4日か5日は再度トライしなければなりません。当然、締め切りを破ることになります。やっぱり破りますか?
でも隣りで、「脱稿したら、今日はお祝いよ」と言っている人もいますよ? どうします?
さて、そして明日(2018年12月1日)は、古川史初の古川日出男を巡るシンポジウム、明治大学中野キャンパスでの「古川日出男、最初の20年」です。メモリアルですね、開催前から、もうすでに。で、明大は明大でも中野のキャンパスですからご注意を。お茶の水ではないです。僕は、登壇者の方々のそれぞれの発表を、映像作品を、琵琶の演奏を、心(のいちばんの底)から楽しみにしています。最後に、何らかの形で、僕も応答のために登壇します。それがどのようなレスポンスになるのか、少し怖がってもいます。静かに壇上に立ちます。
20181130