とても短い長いお便り第7回。前回のお便りは相当な文字量(ボリューム)をぶち込んでしまいました。いかに増量中のシリーズとはいえ、1回に4000字書いていいのか、と自分でも思わないでもないです。4000字って原稿用紙10枚だしな……。とはいえ、この増量シリーズ「とても短い長いお便り」も年内いっぱい。すなわち今回を入れて残り3回ですから、まあ前回よりは抑え気味に、書いてみます。記憶がほとんど飛んでしまうほど濃い1週間だったのですが、その1週間前よりも遥かに遥かに前のことが、鮮烈によみがえり、祝福されることもありました。雑誌「悲劇喜劇」誌には、佐々木敦さんによる『ローマ帝国の三島由紀夫』戯曲評が載りました。これは「フルカワヒデオ、戯曲を読む!」シリーズの総括的回顧から、このシリーズの時点で僕が何を目論んでいたか、そして、その結実としての戯曲『ローマ帝国の三島由紀夫』とつないで、そこでの試み(の野心)をいっきに切る、という鮮烈なもので、かつ、こんなキラーなフレーズにも富む。引用すれば「……ゆうに二千年以上の時がそこに集約されていく。どのようにして? 悲惨と、悲壮と、悲劇と呼ばれる複数の出来事を接ぎ穂するようにして」。(この評を)読み、感動しました。また、雑誌「群像」には倉本さおりさんによる『とても短い長い歳月』評が掲載されていて、これは(見出しから引きが強いのですが)お終いに「世界の枠組をすすんで取り込み、逸脱や無化を繰り返すことで、因果の軛から解き放」つ古川、との、じつに強烈に正確に(かつ僕自身への)激励である1文があって、そのように読まれてそのように説かれることに震えました。誰かが応援している、というよりも、誰かが理解している。とうに、100パーセント理解している。だから書き、まだまだ俺は書き、というよりも、俺はこの世界を《読む》必要がある。そうなのです、作家というのは、それが宿命であるのだと思う。時には、そんな宿命がなかったらよかったのにな、と苦しむ場面もある。けれども。
さて、とても短い長い質問です。
ここに1枚のCDがあります。いえ、CDじゃない形態でもいいのです。商品としての音楽の曲集(=アルバム)がある。このアルバムが、100人に買われて聴かれる。しかし、彼らは1度ずつしか聴かない。1回でじゅうぶんさ、と思った。いっぽうで、同じアルバムがたった1人にしか購入されなかった、とする。すなわち1人にしか聴かれることがなかった。しかし、この彼または彼女は、このアルバムを101回聴いた。すでにそこまで聴き込んでいる。
アルバムにとって、どちらが《幸福》なのでしょう?
とても短い長いポエジー。
そこは著名な東京湾岸の埋め立て地で、けれども、著名だからといって、誰もがその場所を《発見》できているわけではない。ガントリークレーンが船舶からコンテナを移動させているのが見える、細い、狭い、騒がしい公園がある。人はほとんどいない。そこに小さな池があって、かつて、大量の亀たちがいた。僕がその小さな池に近づくと、わさわさと亀たちは水中に飛び込んで、逃げた。たぶん2年前に、そこを再訪したら、池は、水を抜かれていた。あれは掻い掘りだったのかもしれない。いずれにしても、亀たちの姿がなかった。1匹たりと。数日前に、その公園を、あの池を、再々訪した。池に近づいたら、羽音がばさばさとした。鴨だ。それも大量の鴨たちだ。その水面で休んでいて、接近してきた僕を《不審者》と思って逃げる。しかし亀たちはいない。亀は1匹もいない。
鴨は、その翼を用いて、逃げられるのだ、と僕は思った。
亀は、それができなかった、そう僕は感じた。
そして繁殖していた《楽園》から、排除された。あったのは死だろう。
亀たちは逃げられなかった。
その事実は、悲しみなのか? あるいは詩か。
とても短い長い1日。昨日、すなわち2018年11月13日は本当にそんな日だった。僕は前日に、連載小説『木木木木木木 おおきな森』の最新の回の原稿を、入稿した。もう連載も14回めだ。そして愕然とするほどの深みに入りはじめている。入稿後、担当編集者のKさんからの感想で、この回(の原稿)も届いた、きちんと到達すべきところに到達した、と実感できた。そうした想いを抱えて、眠り、起き、この11月13日になっている。緊張している。誰が? 僕が。なぜならば、今日から起筆するからだ。新しい小説を。中篇を。いっさい休日を挟まずに。この中篇小説は、来春に発表される。そして、その中篇小説は、来年3月下旬からスタートする1カ月間のプロジェクトに連動している。だからこそ早めに進める。午前中から、筆を執れるはずだった。準備は、それなりに調えていた。アイディアもある。しかし、まだ何かがつかみ切れていない。結局、午前中は資料調査などに費やす。午後、ふたたび挑戦する。原稿用紙に、万年筆で、タイトルを書き、そこは問題ない。1行めを、どうするか、どこから《入る》か、迷う。悩む。しかし書いた。書いたら消せない。そこがコンピュータとは違う。不用意に反古(=没にする原稿用紙)を増やすつもりもない。すると、何も書けないという状態に至る。もう書けないのかもしれない、とも思う。硬直する。考える。考える。弱音を口にする。絶望する。50分後、2行めを書いている。すると、諦めたかのように3行めに進み、それから原稿用紙3枚ぶん(とは1200字だ)までは行けた。
始まったのだ。
どうにか。
これで正しいのかどうかも判然としない。しかしスタートした。やるしかない。やり続けるしか。
休憩を取る。
しなければならない読書をする。
もう午後も4時を回った。出かける。恵比寿にあるギャラリーで、展覧会を見る。そこは僕にも関係のあるギャラリーで、今回のものは3人の女性たちのグループ展で、どれも、誰もがパワフルで、それも静謐に力があり、いや、むしろ精緻で、脳がクリアになる。
圧縮がかかったような自分の脳が、解かれる。ほどかれる。しかも余白に静かなサウンドが沁みる(ように感じる)。
外は雨だ。ありがたいことに、ギャラリーのスタッフから傘をもらえた。
駅方面に戻る。カフェに入り、執筆開始も迫りつつある評論(来月入稿する)のための、焦点を絞った読書をする。
6時を回った。急がねば。カフェを出る。
電車に乗り、乗り換える。ひさびさの満員電車だった。
中央線の駅に下りて、歩いた。
それから、僕の、初めての担当編集者であるSさんと、ほとんど18年かそれ以上ぶりの食事をした。Sさん、と書いたけれど、このサイトに《最初の編集者》として《告白》してくれているから、本当はイニシャルにして伏せる必要も無い。が、ひとまずSさん。驚いたことに、彼は変わっておらず、驚いたことに、彼と話す自分も変わっていない。もちろん2人とも、たぶん相当な修羅場をくぐり抜けた。変わらない、とは、肉体的に変わらないことでは全然ない。肉体は、たとえば危機に瀕して、それから突破するか、共存状態に入った。しかしこれほど精神が変わらないとはなんなのか。気がついたら4時間が経っていた。愕然としてしまうミッション(ミッション?)の提案もあった。しかし愕然とするということは拒んではいないということだ。
考えながら、考えながら、時にはニヤリと不審に笑ったりもしながら、帰宅して、日付が変わる。
そうだ、日付ばかりは変わる。それは変わりつづけるのだ。しかし《変化》する事象を意識しつづけない限り、じつのところ《不変》はない。
20181214