とても短い長いお便り第8回。いよいよ増量版も年内いっぱい、あと1回です。そして今回は、お知らせ及び感謝から。このサイトの「ちいさな回顧展」コーナーに、新たな展示品が飾られました。僕の小説『ゴッドスター』の、極めてレアなあれのあれです。いや違う、あれの極めてレアなあれです。どうぞご覧ください。『ゴッドスター』(と『ドッグマザー』)のふたつの小説は、どちらも抜粋が『とても短い長い歳月』に入ったりはしなかったわけですが、恐ろしい力で現在の自分を動かしています。いま書いている小説を、格闘する物語宇宙を。「自分たちの続篇を書かせずに、自分たちの存在を強烈に主張する」小説群とは、いったい何なのでしょう? いつも思うのだけれど、小説の《生命力》というのは作者を超えます。作者(の古川日出男)なる取るに足らない存在を。そうした事実は、どこかで感動的です。同じように、感動的な軌跡を書き表わしてくれたのが、「私的古川論」コーナーに新たに寄稿された三浦直之くん(ロロ主宰)の文章「リロードノベル 準備稿」です。一読、愕然としました。なにしろ三浦くんが、作品と呼べるものを出してきたから。書いてきてくれたから。愕然と感動しました。ここには演劇的・小説的《宇宙》があって、しかもそれは僕の小説『ハル、ハル、ハル』に駆動されていて、しかも三浦くんは自身が『ハル、ハル、ハル』に駆動されたのだ、と語っている。そして、『ハル、ハル、ハル』世界がそこからロロの舞台を召喚して、《複合宇宙》を成す。ここには僕が書かなかった続篇がある。僕も書かなかったそれが。しかし、生きている。生かされている。もっともっと《生命力》を増している。
ありがとう。
とても短い長い質問。
そしてこのお便りを綴っているのは2018年の12月20日です。
今年はじきに終わります。
だから、あなたに訊いてみたい。今年が「あと10日増えます」というプレゼントと、来年が「あと10日増えます」というプレゼントを、すなわち内容はまるっきり同じものを、たった今、あなたは神から受け取った。しかしどちらかしか選べない。
どちらだ?
即決せよ。
では、とても短い長いポエジー。
暦とはなんだろう。今回のお便りのなかで(来春の)改元に関して意見を述べることはしません。ただ、僕は太陰暦と太陽暦について考えている。太陰暦は、月の運行を基準にする、満ち欠けを日付は裏切らない。太陽暦は、しかし? 太陽の運行を基準にしていて、それはそれでよい、はずなのだが、どうしてだか「冬至」を無視している。この日、昼間はもっとも短いのだ。この日、新しい「太陽が有力になる」日々が始まるのだ。
どうして「冬至」が、大晦日あるいは元日ではないのだろう?
合理的でない。
と考えて、その「『冬至』が1年の区切りにならない太陽暦を採用している現代人の、たとえば日本人の、合理性の無さ」と思考を進めた途端に、でもまあ、人はそもそも不合理なものだしな、とも思い当たって、なにか許せて、許せたことが自分の詩だ、と思った。
そうした、もろもろの思索を、判断をし続けながら、それではこの1週間のとても短い長い1日はいつであったかと自分に問えば、答えは出なかったとも言えるし、非合理な答えが算出された、とも言える。12月16日から今日(2018年12月20日)まで、ずっとそうだ、と。どれもそうだ、と。書いている。僕は書いているのだ。手書きで。原稿用紙に、万年筆で。小説を。新しい小説の世界にいる。中篇小説の、そこにいる。時間の流れがおかしい。というか、こうやってお便りのためにコンピュータに向かって、じつは違和感を覚えた。何にか? たぶん、執筆することの「たやすさ」に関して、だと思う。断言するが、コンピュータで、かつ横書きのワープロなりエディターで(僕はエディターしか使わないが)文字を叩き出すのは、原稿用紙に字を書き、そのことによって「思考を叩き出す」のとは決定的に異なるプロセスをたどる。そして、それは単に「手書きが正しい」という結論には至らない。問題は横書きか、縦書きか、ではないのか? たしかに僕も、コンピュータで執筆する際にも、縦書き表示は用いる。ほぼ数行ごとに縦書きでブラウズするに等しい。そうしなければチェックが働かない。自己チェック機能が作動しない。しかしだ。僕は Mac を筆記具にして24年めになるのだけれど、どのエディター、どのワープロ、その他、どのような《装置》を用いても、縦書きはブラウズには効果的だが執筆するその現場には向かない。そこには「おそらく、縦書きはそもそも速度を要求していない」との恐ろしい真理(真理?)が孕まれている。横書きは、どんどんと加速して書いてもよい、しかし、縦書きは、それを「適さない」と告げるのだ。たとえば、インターネットで発表する文章または文書に、ルビを振る難しさ。それは、横書きが「ルビなど不要だ」と主張するからだ。縦書きは、時間をかけることを要求していて、その縦書きが、1行の多重化を許す。思考的にも、視覚的にも、だ。そこにルビが入る。挿入が許可される。はっきり予言するが、じきに縦書き、ルビ、は死滅する。そのような運命を強いられる。もちろん「あらがわない限りは」の但し書き付きであって、僕は、おそらく抵抗を示すのだろう。横書きだけの世界になっても、
縦
書
き
し
て
攻テ
撃ロ
す
る
という可能性がある。それではこれよりゲリラ戦に入る。という小説を、今、僕は書いている。まだ正体は見せられない。
20181220