たとえば音楽について。ある若者が、凄い音楽を作った、とします。その場合、たぶん彼または彼女は、「自分が好きなもの(アーティスト、作品)」を何度も聴いています。何百度も、ですね。そのアーティストまたは作品が、あるジャンルに属しているとして、ではジャンル全体を満遍なく聴いたか? それは、どちらかというとないような気がします。また、彼または彼女には、嫌いな音楽があるか? 僕は、あるんじゃないかな、と思います。つまり、彼または彼女は、「自分が、何を好きか、をわかっていて、何を嫌いか、もわかっている。また、あるジャンル(=シーン)に所属したいという優等生的な欲求を持っているわけでもない」とまとめられます。このことを言い換えると、この人は要するに、自分は何者か、をわかっているし、自分は何者か、を表現しようとしている、になります。そして、ここまでに僕が書いたことは《凄い音楽》についての考察であって、《売れる音楽》のそれではありません。そこからひき出される答えは、《凄さは、満遍なさではない》、でしょうか。「そんなの周知のことじゃん」と言われてしまったらそこまでなのですが、しかしながら世間は、「売れるというのは、凄いこと」と、ついつい等号で結びがちだとも経験的に感じます。でも、ここでは等号は使えないのです。なぜならば、等号というのは右の要素と左の要素を入れ替えられる場合に用いるのであって、それじゃあ「凄いものは、売れる」とイコールで結んだら、ここには「?」が登場するわけです。もっともっと個人的な経験からものを言うと、「あんまり凄いものは作らないでほしい」という圧力は、僕は作家になって初期には、けっこう感じました。理由は、売れないから。出版する側に「凄いのは売れないんだよね」との経験則があるから。あれ? なんか愚痴めいてきたな。今回はそういうことを書こうとしてたんじゃなくって、たとえば10冊の本がある、この10冊は絶対に読んだほうがいい、とアドバイスされる、その時に、けれどもそのうちの「3冊だけを、3回ずつ読み(※ここまでで9冊分)、さらにあと1冊分の時間やお金は、映画だとか音楽だとか演劇だとか美術だとかに、ついつい使ってしまう」のは、じつは絶対に読んだほうがいい10冊を読むよりも、身になる体験なのではないか? ということでした。ただし、以上の発言には「若い時にはね」との但し書きがつきます。そうした経験を経て、さあ君は「自分が、何を好きか、がわかった。何を嫌いか、もわかった」となったぞ、それは「自分のことがわかった」ということだ、するとどうなる? 自分の弱点もまた、輪郭も明瞭にわかるのです。そこから、自分に欠けている要素が明らかになって、読まねばならない本が視野に入るようになる。《みんなにとっての絶対の10冊》を越えた、《君にだけ絶対の101冊》みたいなのが。ほら、桁が変わったぞ。頑張れ。……などと、今回はどうして、さながら表現者志望の人たちにアドバイスしているようであるのか? 俺は? ……よくわかんないな。でも、書いたほうがいいと思ったので、書きました。で、近況報告です。文芸誌「MONKEY」17号にて、新連載『百の耳の都市』がはじまりました。高田姉妹さんのアートワークが凄いです(!)。柴田さんが、編集長後書きで、この連載の「成り立ち」について触れてくれてもいます。感激。いっぽうで連載続行中の『木木木木木木 おおきな森』は、いつもいつも次回分を書き進めていますが、ほぼ総計1000枚に達しました。来月発表の回、再来月発表の回は、本当にヤバイところまで行ける気がします。そして、その先も、もちろん行かねばなりません。あと今週末には中篇『焚書都市譚』の作業をします。その画廊劇バージョンおよび展覧会「、譚 近藤恵介・古川日出男」も、一歩一歩、ここから。しっかし、温泉に行きたいな、俺……。
20190215