もういちど尋ねます、元気ですか? 僕はこのお便りの第1回を、そうした問いかけ、呼びかけで始めました。じきイギリスに発つ、という時期でした。あれから1年と1カ月。あまりにも多くのアクションを起こし、書き、書きつづけ、読み、読みつづけ、時に絶望し、何人もの人に励まされ(……そうじゃない、何十人もの、だ)、しかし確実に「俺はこの1年間で実力を上げられた」と言えるところにはいます。実力をアップして、誰が付いてくるのか? その不安は、けれども、ありません。それは僕の問題ではないし、いてくれる人たちはいてくれている。新しい出会いもあり、再会もある。失われる関係はもちろんある、あった、しかし僕に言えるのは「もっと最高の小説を書き、もっと文学者としてレベルを上げ、その《文学》は美術にも音楽にも演劇にも映像にも、他のもろもろにも、よき《響き》すなわち共鳴と共闘をもたらす」域をめざすことは、いちばん低いところから見て(も)、そうそう誤りではないだろうとの盲信です。僕は、古川日出男というのは《愚者》であるとはっきり定義しているので、ひたすら愚かに前進します。お便りは、この第58回めが最終回、となります。最後のレポートは、たとえば先週末の土曜日(2019年3月23日)の LOKO GALLERY での公開制作です。近藤恵介くんとの「、譚」展で、どのような公開制作を行なったか。僕は、小説『焚書都市譚』の手書き原稿105枚のコピーの束を用意して、それを1枚1枚めくり、すなわち400字(原稿用紙上の)を新たにダイジェストした言葉を編みました。400字を何行か、何字かに圧縮する。それを105枚分、続ける。近藤くんは薄い紙を、大半は和紙、一部が洋紙のそれらを準備済みで、僕はそこに書いている。僕はギャラリーの2Fで書いている。そして1Fに近藤くんがいて、これらを受け取ると、彼はそれをカットアップし、台に貼る、貼り込む、層が生じる、文字は滲む、時間と時間が侵蝕し合う、僕は原稿用紙105枚の小説『焚書都市譚』を十数枚の紙に新たに圧縮して、それを近藤くんがさらに切り、貼り、重ねて、ひとつの絵画を産む、産んだ、それが「絵焚書都市譚」です。この1作品の絵に、小説がまるまる入った。そうした試みでした。作品は、「、譚」会期中には確実に展示されますので、よければご鑑賞ください。展示されていない場合は、ギャラリーのスタッフにお尋ねください。それからギャラリー併設のカフェ・私立珈琲小学校では、いま「、譚」ブレンドが供されています。僕も何度も飲ませてもらって、じつに美味しい。このブレンドにも、展示に連なる背景があるので、珈琲小学校の店主・吉田先生にお尋ねください。さて、画廊劇『焚書都市譚』も上演はじきです。準備はかなり進んでいて、面白いことになりそうです。会場では、画廊劇の公演日もそうですが、会期中ずっと小説『焚書都市譚』一挙掲載の雑誌「すばる」を販売しています。他の本もあります。こちらの購入も、気軽にギャラリーに訊いてください。……うん、だいたいこの辺りで、伝えるべきことは伝え終えられました。アナウンスすべきことは、しました。仲間がいること、読者がいること、理解者がいることは本当に幸せなことで、だからこそ、この20周年記念サイトもオープンできました。仲間が、新たに増えそうなこと、理解者はきっと増えるであろうこと、それをここからも、信じるというか、やはり盲信します。《愚者》なのでね、僕は。丘の上に立ったらフール・オン・ザ・ヒルです。そういうところに行けたら、いいじゃないか。で。このサイトの、今後です。「20周年記念」の「期間限定」の枠を外して、コンテンツは残すことにしました。最新情報と、僕の「伝えたいこと」は、発信継続します。この「お便り」コーナーは完結しますが、お便りではない声を月に2度ほど発します。それが要るかもしれない、と思うのは、みな《長文》での発信をしないようになっているからです。インターネット上でも、短文を出さず、長文で語ることで、なにかは……アティテュードは、わかってもらえるかもしれない。わかりあえるかもしれない。他者を理解する、とは、他者の背景を理解することであって、そこで必要とされるのは「長文のリテラシー」です。それが全部失われる時、もちろん小説は死にます。前にも書きましたが、小説は死滅するだろうな、とは思っています。しかし、それが新たな形で蘇生する(ことを許す、マトリックスとしての)《文学そのもの》は死なせない。自分の寿命が尽きるその時に、西の空のほうを見ながら「ああ、まだ《文学そのもの》は死ななかったな。かろうじて……」と言えるように、僕はこれからも愚かに進むのです。だって、長文の読める人たちがいれば、時代のデッドエンドはきっと突破されるから。
20190328