満月と併走する

満月と併走する

2022.06.11 – 2022.06.24 東京・埼玉・ボローニャ(イタリア)・トリノ(イタリア)

私が日本を発ったのは6月14日で、この日は満月だった。この満月をストロベリー・ムーンと言うのだそうだ。そう教えてくれたのは友人で、この友人は、今年の秋から冬にかけて形になる企画のためのミーティングなどを、もうひとりの友人とともにまさに満月のその当日に進めてくれていて、また、別な友人はこの満月の日に子供をぶじに出産した(可愛い動画が送られてきた)。そういうやりとりをしながら、私は羽田から、まず経由地イスタンブールをめざした。夜、発った。窓ぎわの席に座っていると、ちょうど満月が見えた。東京湾の満月だった。

その満月、ストロベリー・ムーンがどうなったのかと言えば、私を乗せたジェット機は夜を追いかけるように西へ、西へと飛んでいたので、そのストロベリー・ムーンは夜空にかかる角度は変えながらも、ずっと窓外にいたのだった。どの程度の時間、そうであったかと言えば、12時間を超えた。イスタンブール新空港(2019年4月にアタチュルク空港から完全移転した)にて、旅立ちの際とは別な地平にいまにも沈みそうな月を眺めながら、何だかこういうのは凄いことだなと感動していた。私は、ロシアとウクライナのその悲惨な情勢のために、シベリア上空は飛べなかったのだけれども、運命のようにその満月とずっといた。

ボローニャでは NipPop 2022 というイベントが開かれていて、私はそこに招かれたのだった。かつて『ミライミライ』という小説において Nippon(日本)の Hip-Hop(ヒップホップ)であるニップノップという音楽を創造した私が、ニップポップに招待される、というのは、なにか痛快な印象があった。また今年の NipPop のコピーが黙示録(apocalypse)をもじった aPOPcalypse であることは、なんだか猛烈に「黙示録(アポカリプス)の生放送」を謳った『曼陀羅華X』的で、そこにもいろいろな予感があった。私は、自分の3冊のイタリア語版の小説の翻訳者であるジャンルーカ・コーチさんから連絡を受けて、こうしてイタリアに来たのだけれども、私自身も暢気であるというかなんというか、きっと日本からのゲストは他にも誰かいるんだろうなと思っていたら、そういう人は不在で、今年の NipPop のメイン・ゲストは私なのであった。びっくりした。

この NipPop 2022 では計みっつのイベントに出た。誰かがサインを求めてきた伊語版『サウンドトラック』が、私の知らない装幀だったので、これまた驚いた(そういうバージョンが事実、少し前に出ていたのであった)。そして、ボローニャでのクライマックスは朗読会で、プログラムは ‘Tokyo Soundtrack Reading Performance’ と名づけられていて、私はこの日、イタリア時間の夜9時から、初めて単行本の『サウンドトラック』(日本語版だ)を手に、また、他にもいろいろと手にしながら、朗読に臨んだのだった。どうして、単行本の『サウンドトラック』のリーディングは、初めてなのか? 私が朗読というのを開始したのが2005年のことで、ハードカバーの『サウンドトラック』はその2年前に出ていたからである。文庫の『サウンドトラック』からであれば、朗読をしたことがある。しかし、重い、分厚い単行本からのそれは初めてで、このハードカバーはデザイン力がとても高いのだけれども(装幀は松田行正さん)、白地に赤をあしらったカバーを外して現われる真の、青色のカバーの存在感も凄いから、その「青い面(おもて)を出現させる」こともした。ちなみに白地に赤、のほうには、じつは音楽(楽譜)が秘められている。私はいつも、装幀を手がける方々には恵まれている。そうなのだ、何十年も昔から。

ボローニャのあとにはトリノに移動した。私はなんだかボローニャにいるあいだに2週間ほどが過ぎたような体感を持っていて、なにしろ肉体はイタリアにあるのに Skype 経由でNHKラジオの「雉鳩ノート」に出演したり、福島民報紙にいつもの「曲がり角にたたずんで」のエッセイを書いて、入稿して、ゲラも戻したり、ゴッチ(後藤正文さん)がライブミックスをしてくれた先月のイベント『D-composition』の音源を聴いたり、いやもう、その音源が凄くって、憶えたばかりのイタリア語で「ファンタスティコ」と思ったのだけれども、そういう合間に連日、放っておいたら深夜1時ごろまで続くらしいディナーにも可能なかぎり加わって、いっぽうでボローニャの街は中世の城塞都市の「幻影」がそのまま「現実」化もしているので素敵で、……等々とやっていたら、かなり時間感覚が狂ったわけだった。俺、いつイタリアに来たんだっけ?

トリノ東洋美術館が会場のイベントもやった。古川×コーチ、の、「古川日出男の文学(フルカワのナラティブ、物語)」みたいなタイトルの会で、本当にありがたい場を用意してもらいながら、熱心な聴衆の方々の前で、トリノ大学のアンナさんとオズミさんのお力も借りて、たぶん、そこでするだけの意味のある話はできた。いつもいつも、こういう時にどれだけ真剣になれるかを私は考えているし、いつもいつも、どれだけ正直になれるか、すなわち「普段着の日出男」みたいな側面にもフッと戻れるか、も考えている。そのふたつがちゃんと叶えられたイベントだった。終わってから、いろんな人がサインを求めにきてくれて(本を持っていない人が「家にはあるんで、この紙にしてください!」と言うのが、ものすごく私自身がニコッとなってしまう体験なのだった)、そういう現実は、ただただ、ありがたい。

トリノではイタリアの広さというもの(空間的な、時間的な広がり)も認識した。が、それについて語り出すと今回の「現在地」はえんえん終わらないことになるので端折る。そのトリノからの帰路、私はミラノ郊外のマルペンサ空港から、まず経由地のイスタンブール新空港へ、そして羽田へと向かって、それら2機の機内では6月30日に控えているイベントの準備のために脳味噌をラテンアメリカ文学に切り替えようと作業に入ったのだけれども、1機め(ミラノ〜イスタンブール)では撃沈した。「こんな機内は初めてだ」という、なんというか無統制ぶりで、離陸時にも携帯電話があちこちで鳴って、複数の言語でハローだのアローだの響いているし、背後では人種と国籍を超えたロマンスもいま芽生えそうで、頼むから俺をマリオ・バルガス・ジョサ(ペルーのノーベル賞作家ですよ)の世界にひたらせてくれよ、と思ったが無駄だった。

雉鳩荘に戻るには、ほとんど2日かかった。帰宅して、6時間後に、朝日のなかで雨戸を開けた。庭はどうなっていたか? ヒマワリたちが伸びていた! 私は4月に何十ものヒマワリの種を蒔いていたのである。とうとうヒマワリたちの1メートル越えが始まり、さあ、あとは夏を待つ。